加藤周一と読む『今昔物語集』下
3.『今昔物語』の性的世界は、倒錯的ではなく直接的であり、登場人物の性的態度は、階層による違いはなく平等である。加藤氏の引用から2話紹介。老いた好色の名医のところに美しい女房があらわれ、陰部の腫れ物の治療をたのむ。「辺リニイト近ク腫レタル物アリ。左右ノ手ヲモッテ毛ヲカキワケテ・・・」と表現は露骨。「辺リ」は女性器。老医はたちまち契らんと願う。女は癒ってからといい、名も告げない。病は快方に向かい、老医の期待はいよいよ大きくなる。ところが癒った女は、ある日突然消えた。老医は手を打ち地団駄を踏んで、大泣きします。弟子の医師どもが「密カニイミジクナム笑ヒケル」。もう1話は極端。后の病を加持祈祷にて治した聖人は、后に愛欲の情を発し、后の腰に抱きつきます。医者に発見されて捕らえられますが、后への愛欲の情断ちがたく、自害して鬼となり、后を狂わせ睦びあいます。女房たちは怖れおののきますが、后は事終わった後平然としています。天皇は僧を動員して鬼の調伏を試み、効果あって3ヶ月ほど鬼は現れません。天皇が后のところへ行って、泣く泣く嘆いていると、例の鬼がやってきて御帳のうちに入ると、后もつづいて入ります。天皇は勿論、大臣公卿はじめ多くの人々の前で、鬼は后とともに寝て、「エモイハズ見苦キ事ヲゾ、憚ル所モナク為セ給」いたとのこと。加藤氏の総括の編者は大衆ではない。しかし大衆的な聴き手を考慮しながら大衆的な世界を語ろうとしたこの作者と、宮廷貴族を描いた『源氏物語』および以後の「物語」の作者との著しいちがいの一つは、まさに肉体的性的な場面の叙述について、一方にはほとんど禁忌はなく、他方には禁忌が強かったということである。性的平安時代もまた、二面性をそなえ、その二面性は支配層と被支配層との社会的構造と密接にむすびついていた」。
4.『今昔物語』の人物の世界は、「行動」の世界である、ことについて。妻とともに大江山を越えようとした男が、盗賊に会い、自分の弓と盗賊の太刀を交換し、自分の弓で脅されて太刀も奪われ、木に縛られたうえに、目の前で妻を寝取られるという話。その妻曰く「山中ニテ一目モ不知ヌ男ニ弓箭ヲ取ラセケル事、実ニ愚也」と。そして加藤氏曰く「これは実際的な心得であって、当事者の感情心理とも、またいかなる倫理的価値とも関係がない。生きていくためには、状況の判断が正確でなければならず、反応が敏速でなければならない」と。そしてこの行動的な世界は、武士の話に典型的に現れます。「そこでは人物が単に行動的であるばかりでなく、初期の武士層の価値体系を見事に体現して」おり、それはすでに、「『平家物語』の武士像を予告している」と加藤周一は指摘しています。部下が殺されることは、親玉は恥である。集団に対する忠誠は絶対で、自分や妻子のことを思わないことを理想とする。いくさで相手を皆殺しにしても、女には手を触れぬこと。たとえ相手が盗人でも侍に二言はないこと、などなど。
最後に加藤氏は、『今昔物語』の作者の群集の動きを描く筆力が『平家物語』の作者を思わせると感想を述べた後、次のことばでもって『今昔物語』を、そして平安文学を締めくくりました。
「けだし『今昔物語』の偉大さは、現にあるものを直視して描き切ったということにだけあるのではない。やがて来るべきものさえも、見抜いていたということにある。鎌倉時代、―あの驚くべき転換期は、ただ12世紀前半のこの作者にとってだけは、すでに戸口まできていたのである」。こうして、『日本文学史序説』「第三章 『源氏物語』と『今昔物語』の時代」は終わり、「第四章 再び転換期」つまり鎌倉文学へと展開することになります。
『今昔物語』は、芥川龍之介の小説(『鼻』『羅生門』『藪の中』)や黒沢明の映画(『羅生門』)で馴染みあるものでしたが、今回、福永武彦訳で155話を読んでみて、その奇想天外のおもしろさ、堂々とした反権力・反権威ぶり、天真爛漫なエロティシズム、力強い女たちの活躍と、心から読書の楽しみを味わいました。加藤周一氏の分析もシャープでしかもわかりよく、現在続けている日本の古典の読み方に、自分なりの納得を得るものです。まだやっと12世紀、平安時代が終わったところ。先はまだまだ長い。
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