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2010年3月12日 (金)

近代日本にとっての中国

Photo  東アジアの近現代史を学ぶことを、定年後の読書指針のひとつとしています。勿論、日本(人)にとってのアジアの意味を理解するためです。そして中国は、朝鮮・韓国とともに、学習の中心となります。
 一昨日、本屋の棚で、偶然見つけたのが、渡邊一民著『武田泰淳と竹内好 近代日本にとっての中国』(みすず書房 10/2刊)です。早速読んでみました。(写真:竹内好と武田泰淳 1975東京 筑摩書房提供)

 近代日本にとっての中国を考えるために、なぜ「武田泰淳と竹内好」なのか。著者は「あとがき」に次のように記しています。
 「戦後文学の圧倒的影響下に精神形成をとげたわたしにとって、このふたりは早くから親しんできた文学者である。しかしあらためて近代日本にとっての中国という問題意識をもっておびただしい資料を読みすすんでいくうち、1930年代から70年代末までの半世紀くらいのあいだ、中国と日本の問題を一貫して考えつづけてきたのは、結局このふたり以外にはなかったということを、わたしは痛感させられたのであった」。
 さて、私が中国のことを強く意識するようになったのは、70年代はじめ、文化大革命と日中国交回復というふたつの大きな歴史的事件に直面していた時でした。その頃ちょうど、大学で魏の農書『斉民要術』を講読したり『資本論』の学習会に参加していたことも、中国への関心を強めました。そして、竹内好の評論や武田泰淳の小説を好んで読んだのも、その頃でした。渡邊一民氏のこの著作に引かれたのは、自然の成り行きでした。
 著者は、1930年代から70年代にいたる武田と竹内の主な著作を、丁寧にフォローしながら、<他者>としての中国に焦点をあて、近代日本の精神の流れを振りかえります。取り上げられた主な著作を列挙します。
 武田泰淳著-『司馬遷』43年、『審判』47年、『風媒花』52年、『森と湖のまつり』58年、『秋風秋雨人を愁殺す』68年、『わが子キリスト』68年、『富士』71年。
 竹内好編著-『魯迅』44年、『中国の近代と日本の近代』48年、「国民文学論争」関係論文52年、「近代の超克」関係論文58,9年、「安保闘争」関係論文60年、「アジア主義」関係論文63年、雑誌『中国』63-72年。
 これら武田・竹内の著作同様に、堀田善衛の作品も、取り上げられます。堀田善衛は、私が最も長く読み続けた作家の一人です。
 堀田善衛著-『祖国喪失』50年、『歴史』53年、『時間』55年、「バンドン会議」関係57年、『日本の知識人―民衆と知識人』57年。
 既に読んだものも多いのですが、それも20-30年前のこと、あらためて渡邊先生の論述に沿って、読み直してみたい。本書のイメージを記憶しておくために、次の文章を引用しておきます。
 「中国を侵略する対象としか認識していなかった時代に、中国とは日本人にとってどのような問題なのかと問い、その問いにみずからこたえようとこころみた先駆者こそ・・・竹内好と武田泰淳であった。ところが不幸なことに、近代中国を理解する先がけとなったふたりのうち、まず武田が、ついで竹内が、いずれもその中国を侵略する兵士として中国へ送られたのである。だからこそ中国で敗戦を迎えた彼らふたりは、日本における中国理解の先達であつたがゆえに、だれよりも侵略者たる兵士であったみずからの中国人にたいする罪と、みずからがその一員であった国家日本の中国にたいする罪とを、一身に引きうける決意をかためなければならなかった。そしてふたりは、その決意を生涯かけて実践してきたと言えるだろう」。

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