宇治十帖の地を訪ねる
母の一周忌にあたり週末、京都へ墓参りに行きました。身内だけの小人数で、左大文字山麓にあるカトリック墓地に両親の墓にお参りしたあと、姉夫婦の住む宇治へいきました。年明け「源氏物語」を読んだところなので、この機会に「宇治十帖」の舞台を訪ねることにしました。写真は、あさぎり橋のたもとにあった「宇治十帖モニュメント」。
最初に訪ねたのは、源氏物語ミュージアム。ここで、当館所蔵の伝土佐光則筆『源氏絵鑑帖』のレプリカや映画『橋姫』(宇治十帖のひとつ)をみて「源氏物語」を復習し、牛車や十二単を着た人形などをみて、平安王朝風俗をたのしみました。宇治は、嵐山ほどには観光客も多くなく、この博物館も土曜日の昼近くでしたが、入館者はちらほら程度でした。
ミュージアムをあとに宇治上神社に向かいました。政界から追放された八の宮は、仏門に帰依し世捨て人のような生活をしていました。この八の宮がふたりの娘と一緒に、ひそかに暮らしていたのが、ここ宇治上神社のあたりと想像されます。宇治川右岸は、後背に深い山をもち、1000年前は恐らく、人気のない寂しいところであったはずです。写真は、鎌倉時代に建てられた桧皮葺・寝殿造様式の拝殿で国宝に指定されています。
宇治上神社の少し手前の小路沿いに、宇治十帖古蹟10個のうち『総角(アゲマキ)』(写真)と『早蕨』のふたつがありました。江戸時代の好事家が建てたとのこと。近くには、宇治十帖を題材にした与謝野晶子の歌碑もあります。八の宮の一周忌もすぎた頃、遺された姫君たちは心細く寂しく過ごしています。また、姉の大君に対する薫の想いは、つのります。
この小路を「さわらびの道」と呼び、あの「早蕨」からとった名称です。道沿いにシャガや山吹の花が咲き、既にヤマモミジの新緑も色鮮やかでした。隠とん生活する父八の宮につづいて姉大君も亡くし、寂しく暮らす中の君。そこに、山の阿闍梨から文とともに蕨や土筆がとどけられました。「さわらび」が「早蕨」であることは、今回はじめて知りましたが、なんとも語感の美しい言葉です。
宇治上神社の裏山へ登り、中腹にあった展望台から、宇治川左岸の平等院界隈を見下ろしました。源氏物語では、匂宮がお供たちとともに夕霧の別荘で賑やかな管弦の遊びをします(椎本シイガモト)。この別荘があったのが、宇治川左岸のこのあたりと、紫式部は想定していました。八の宮は、川向こうの屋敷から音楽の音を聞き、都での生活を懐かしく思い出します。匂宮たちの管弦の遊びをした宇治川左岸と、八の宮と姫君たちが仏門に帰依した生活をいとなむ右岸は、まさに此岸と彼岸の対比のようです。
その此岸に、平等院鳳凰堂があります。時の権力者、関白藤原頼道のつくった阿弥陀堂。内部には、定朝作の巨大な阿弥陀仏坐像が安置されている。浄土の再現です。加藤周一氏は、平等院鳳凰堂を評して、「藤原一族の上層部にとっては・・・この世がすでに極楽に近かったから、それを恒久化するために・・・浄土を求めたのである」。本来、浄土思想は彼岸的・超越的なものだったのにかかわらず、平安貴族支配層はそれを、此岸的・世俗的なものへ読み替えたのです。鳳凰堂を建てた頼道の父親が、藤原道長。紫式部が女房として仕えた中宮彰子は、道長の長女。いずれにせよ、平等院鳳凰堂は、源氏物語の世界を連想させるに十分な歴史遺産です。
幾度となく訪れたことのある宇治ですが、源氏物語を読んだあとのこの地は、少し奥行きのある表情の富んだ土地として、眼前に現われてきました。読書と旅の楽しみのひとつです。
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