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2010年4月 3日 (土)

田中伸尚稿『大逆事件 100年の道ゆき』完結

Photo_2   今年2010年は、韓国を併合して100年になるとともに、日本の近・現代史最大の思想弾圧事件である大逆事件から100年になります。雑誌『世界』に、昨年1月号から毎月連載されていた田中伸尚稿『大逆事件 100年の道ゆき』が、今年の3月号で完結しました。これを機に、全編を読みなおしました。(写真は、幸徳秋水と管野スカ゛)

 筆者による大逆事件の概要は、次の通りです。
 「天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら26人が「大逆罪」で公判に付され、大審院特別刑事部は非公開裁判で、一人の証人も採用せず、半月の「急ぐこと奔馬」のような審理で11年1月18日に24人に死刑・・・の判決を言い渡した。このうち幸徳をふくむ12人は、判決からわずか1週間後の1月24、25日に縊(クビ)られてしまった。
 戦後の諸研究の積み重ねでこの事件は、当時の政府が無政府主義者、社会主義者や同調者、また非戦・自由・平等といった思想を根絶するために仕組んだ国家犯罪だと判っている・・・」。
 「大逆罪」とは何か。旧刑法第73条「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫に対シ危害ヲ加エ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」という条項をさし、1947年、刑法から削除されました。民主主義とは相容れない条項であることは、いうまでもありません。
 では彼らは、何をしたのか。「非戦、平等、自由、・・・社会主義を達成するには天皇迷信の打破によって」と思い込んだ宮下太吉は、「爆裂弾・・・を天皇に投げれば、迷信の打破になる」として天皇暗殺を計画し、管野須賀子、新村忠雄、(古河力作)の2名(3名)の賛同を得て、爆裂弾製造へと駆けていきました(信州明科 爆裂弾製造事件)。しかし、大逆罪で逮捕された26名のうち上記3(4)名を除く23(22)名が、検察側の予断と推測によって、宮下らの暗殺計画に連座したとして、死刑を含む有罪とされたのです。そして、12名が処刑され、5人が獄死しました。近・現代史最悪の冤罪事件でした(古河力作の関与については、疑問とする見解あり)。
 筆者の田中伸尚氏は、大逆事件の被害者の生と死の記憶を、よみがえらせます。日本ではじめて社会主義やアナキズムを学び唱えた人びとの、人間的で魅力的な姿が、浮かび上がります。新宮町のクリスチャンの大石誠之助は、非戦論を唱え公娼制度に反対する一方で、貧乏人からはお金を取らない町医者でした。処刑されたのは44歳。新宮町の真宗大谷派住職・高木顕明は、部落問題と取り組み、仏教教団の主戦論を批判し、平和を説きました。死刑判決のあと無期懲役に減刑され、獄中にて50歳の誕生日に自死。教団から除籍処分を受けました。民衆の苦しみや辛さを、自らの痛みとして生きてきた箱根町の禅僧・内山愚童は、小作人の解放を「無政府共産」に求めました。36歳で刑死。曹洞宗から排斥。構造的な農業変革を目指した実践的な農業者・森近運平は、地元の岡山・井原市で、先進的な温室栽培に取り組んでいました。東京時代の幸徳秋水との交遊から逮捕、刑死。30歳。この4名以外の被害者についても、その生と死を、筆者は丁寧に追跡しています。
 これら被害者には、刑死や獄死があったばかりではなく、死後、家族・縁者に対する官憲の迫害とともに、「逆賊」という国家の烙印が、ついてまわりました。処刑された被害者の葬儀も墓を立てることも、許されませんでした。底なしの貧困と世間との断絶に、遺された家族の苦悩ははかりしれません。しかし、被害者の妻や兄弟、孫などの家族・縁者が語る、被害者に対する温かい言葉と高い矜持の心は、被害者たちの人間的な魅力がいまなお、近親者の間に語り継がれていることを、想像させます。
 田中氏は、国家による思想弾圧に対して、それを押し返えそうとした知識人の動向に、注目します。石川啄木は最も早く、事件の真相を見抜いていた知識人でした。石川は、事件の弁護団のうち最も若い弁護士・平出修から情報を得ていたのです。この事件を論じた石川の評論『所謂今度のこと』を知るのは、戦後になってからのこと。その平出修は、裁判の不当性を衝いた小説『逆徒』を発表。しかし掲載誌『太陽』は発禁処分を受けました。この『逆徒』もやはり、戦後を待たなければ、一般には読めませんでした。平出は『逆徒』の末尾に「俺は判決の威信を蔑視した第一の人である」と書き記しています。啄木の評論も平出の小説も結局、当時は一般には読めなかったのに対して、徳富蘆花の第一高等学校弁論部での講演『謀叛論』は、処刑からわずか1週間後、公開の場で公然と「大逆事件」裁判を批判しました。12名の処刑を「暗殺」と呼び、宗教界が慈悲もなく除籍処分をしたことを批判し、最後に聴講している学生たちに、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見做されて殺された。諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である」とすら問いかけました。当時一校には、「横浜事件」の細川嘉六、田中耕太郎、河合栄治郎、芥川龍之介、山本有三、久米正夫、菊池寛が在籍しており、近衛文麿も聴衆の一人だった、と筆者は書き添えています。
 1960年代に入って出された再審請求は、法的安定性を重視する検察の論理の前に、棄却されます。筆者は、「大逆事件」判決の法的安定性とは、「明治国家の過誤の守護」だと批判します。しかし、この再審請求がきっかけになって、「研究は目覚しく進展し、運動も広がり、社会の事件観にも変化の兆しが見えかけ」ました。
 1990年代は、「大逆事件」被害者の復権と名誉回復の画期となった時期でした。この連載記事最終回は、「闇を翔る希望」と題して、各地・各界での変化と復権の動きを報告しています。新宮市では96年、市議会における一人の市議からの質問をきっかけに、市の広報に大石誠之助、高木顕明、峯尾節堂が、事件が国家権力による冤罪という認識を前提に、紹介されました。さらに01年、「大逆事件の名誉回復宣言」決議を市長提案の上、全会一致で可決しました。また、曹洞宗は93年、内山愚童の処分を取り消し、真宗大谷派は96年、高木顕明の擯(ヒン)斥処分を取り消し、そして臨済宗妙心寺派も同年、峯尾節堂の擯斥処分を取り消しました。「仏教三派は、かつて国家に忠誠を誓う証しとして競って、自派の僧侶を切り捨て追放したが、今度はその処分を相次いで取消し、顕彰碑を建て、「復権」していつた」のですが、筆者はなお、仏教者がこの問題を深めていくことを願望しています。高知・中村市(現四万十市)は2000年、「幸徳秋水を顕彰する決議」を、全会一致で議決しました。
 しかし、古河力作の故郷、小浜では「今もコトリと音さえ聞こえない」と筆者は報告します。
 筆者は最後に、「紀州・熊野の市民らの目を瞠るようなアクティブな活動に、私は未曾有の国家権力犯罪によってつくられた百年に及ぶ暗く重い社会意識を切り拓く民衆の「底力」を感じる。闇を翔るような希望を見る」といつて、この長い報告を閉じています。

 「大逆事件」について詳細に学んだのは、今回が初めてです。戦後、日本国憲法によって実現していく非戦・自由・平等といつた思想が、全面的徹底的に否定され、死刑をもって国家によって弾圧された事件であったことを、あらためて知りました。そして、日本初期の社会主義者たちの人間的な魅力に、強く惹かれました。いずれこの連載記事は、岩波書店から単行本になって発売されるものと思います。100年を記念して、一読をおすすめしたい。

 
 

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コメント

よくぞ書いてくださいました。
とてもわかりやすかったです。

「大逆事件」が単行本になったので
読んでいます。

コメントありがとうございます。
田中論文は、歴史を学ぶことの意味を教えてくれた、優れた論稿でした。

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