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2010年5月13日 (木)

加藤周一・堀田善衛そして鴨長明『方丈記』

Photo  鴨長明著『方丈記』について、加藤周一は『日本文学史序説』(筑摩学芸文庫)において5ページを割いて論じていますが、堀田善衛は『方丈記私記』(ちくま文庫)という一冊の本を書きました。『方丈記』そのものが、角川ソフィア文庫本で30ページの短い古典作品ですので、堀田善衛の『方丈記私記』は、原作の10倍程度のボリュームからなり、『・・・私記』という名称からも、単なる『方丈記』解説書でないことを、うかがわせます。(菊池容斎画・幕末から明治時代初期にかけての日本画家・ウィキペディアより)

 まず、加藤周一著『序説』の鴨長明『方丈記』論を読んでみます。
 加藤氏は、13世紀文化の特徴を、鎌倉幕府が成立(1192年)し承久の乱(1221年)の敗北を経て政治的権力を失った貴族が、新たな異質な環境のなかで呈した反応のなかに求め、それを4つの類型に整理しています。
 ①失われた平安朝の宮廷社会を懐かしむ歎きの歌。例:『建礼門院右京大夫集』。
 ②没落し崩壊し去る旧秩序を離れて、山野に旅と閑居をもとめる逃避の文学。例:西行、鴨長明。
 ③政治的・宗教的価値から峻別された文化的価値(特に美的価値)を鋭く意識した文化。例:定家『新古今集』。
 ④体制の終わりは、原因・結果の連鎖として過去を記述する歴史意識を生み出した。例:慈円『愚管抄』。
 ここで鴨長明は、西行とともに、「逃避の文学」として括られています。しかし長明の逃避は、「観察者として必要な対象との距離」をつくりだし、ジャーナリストの眼を我が物することを可能としました。『方丈記』前半の、次々と京都を襲った大火・竜巻と遷都・飢饉・大地震・疫病などの記述は、優れたルポルタージュといえます。例えば、大火の場合は、

 風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より、火出できて、西北にいたる。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰となりき。
 火元は、樋口冨の小路とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移り行くほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地にふきつけたり。空には、灰を吹きたてたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙にむせびて、倒れ臥し、或は焔にまぐれて、たちまち死ぬ。・・・・・

 「その中の人、現し心あらむや」。うつし心=意識が確かである。正気である(広辞苑)。「火の中の人は、正気であっただろうか」。後に取り上げる堀田善衛は、自宅を火災で失った経験から、長明の記述に強く共感しています。それはともかく、長明は現場に走って行って火災を目撃し、観察鋭くリアルに描いています。加藤氏は、こうした『方丈記』の特徴とともに、長明のもうひとつの著書『無名抄』に顕著な特徴である、仏教とは無関係な世俗性と瑣末な事実に対する強烈な好奇心とをあわせて、次のように結論付けています。
 長明の「実地検証主義は、普遍的原理よりは個別的な事実を、超越的な観念よりは日常的な経験を尊重してやまない土着思想の一面の、まさに典型的な表現でもあった。・・・『方丈記』の長明は、十二世紀末・十三世紀初の外国文化の「日本化」現象を代表し、「日本化」とは、鎌倉仏教の超越性に対する抵抗にほかならなかった。抵抗したのは、当人の骨の髄まで沁み込んでいたところの、まさにそれ故に当人には意識されなかったところの、しかし『無名抄』の行間には疑う余地もなく溢れていたところの、土着思想の此岸性であったろう」。加藤周一氏は、長明を優れた時代の観察者として評するとともに、思想家としては日本文化の伝統、土着思想からは自由ではなかった、と指摘しました。
 
 堀田善衛の『方丈記私記』は、著者が冒頭で述べているように、『方丈記』の鑑賞・解釈の本ではなく、『方丈記』が堀田自身の経験となり、魂に刻みつけていったものを、書き記そうというものです。1945年3月、東京大空襲を機に堀田は『方丈記』を読みかえし、天災地変や戦乱の絶えなかった中世初期の長明と、20世紀半ばの戦時下の自分とをたぶらせ、『方丈記』の世界を生き生きとよみがえらせました。また、空襲で焼けただれた東京の街なかで、ある衝撃的なシーンを見て、長明にあって今日まで続いている伝統的な無常観、その政治的利用について、鋭く批判します。これは、本書の最後のほうで述べられる、本歌取り文化に対する厳しい批判とともに、この『方丈記私記』のαでありωです。
 では、あの戦災の町で、堀田善衛は何を見たのか?
 3月18日彼岸入りの日、堀田は激しい空襲をうけた深川へ、知人の女の消息を尋ねていき、そこで衝撃的な場面に出くわしました。ぴかぴかの車に乗って、軍服と磨きたてられた長靴をはいた天皇が、焼け跡にやってきた時のこと。焼け跡をほっくりかえしていた人びとが、土下座をし涙を流しながら天皇に謝罪したのです。「陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第でございます、生命をささげまして・・・・・」と口々に呟きました。これでは責任は、原因を作ったほうにあるのではなく、結果を受けた、家を焼かれ身内を殺されてしまったほうにあることになるではないか。
 「ただ一夜の空襲で十万人を越える死傷者を出しながら、それでいてなお生きる方のことを考えないで、死ぬことばかり考え、死の方へのみ傾いていこうとするとは、これはいったいどういうことなのか?人は、生きている間はひたすらに生きるためのものなのであって、死ぬために生きているのではない。なぜいったい、死が生の中軸でなければならないようなふうに政治は事を運ぶのか?・・・・・日本の長きにわたる思想的な蓄積の中に、生ではなくて、死が人間の中軸に居据わるような具合にさせて来たものがある筈である」。堀田は、日本文化に伝統的に根づいてきた無常観に着目します。そして、「この無常観の政治化されたものは、とりわけて政治がもたらした災殃に際して、支配者の側によっても、また災殃をもたらされた人民の側としても、そのもって行きどころのない尻ぬぐいに、まことにフルに活用されて来たものであつた」。ここで『方丈記』が引用されます。災厄に直面した人びとの反応。
 
 羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。

 世にしたがへば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。いづれのところを占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

  (世間のしきたりにしたがえば、自主性を失って、窮屈だ。したがわなければ、非常識な狂人みたいに見られる。―どこに住んだら、どんなことをしたら、しばらくの間だけでも、わが身を安住させ、ほんの少しの間だけでも、心の不安を休ませることができるのだろうか。―人間に生まれた以上、とてもできそうもないことだ。角川ソフト文庫の簗瀬一雄訳)

 人びとに災厄ばかりをもたらす政治を、変革しょう、革命だ、とはならない日本の伝統的な思想。こんなこと言ってもはじまらないか、と堀田はつぶやきながら、あっ、私も伝統的な無常観に浸蝕されている、と自省します。

 もすこし『方丈記』に寄り添って、堀田善衛の『方丈記私記』を紹介しておきたい。
 加藤同様に堀田も、長明の優れた実証主義・現場主義を指摘し、そのことはまた、堀田善衛自身の行動様式でもあるのですが、例えば、1968年秋、堀田善衛がワルシャワ条約5カ国軍の占領下にあるプラハの街に立ったとき、さしたる用事も無いのに福原(平清盛の遷都先、神戸)へ出かけていった長明のことを思い出して、苦笑します。

 古京はすでに荒れて、新都いまだ成らず。ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。

 (だれも彼もが、みんなふわふわ浮き出た雲のような気持ちになっている。簗瀬訳)

 堀田の読み方。「社会主義の「新都はいまだ成らず」、かといって、古きスターリニズムの古都もまたすでに「荒れ」果てていて、これから後どうなるか、社会主義更新のために全身で働いた人々も、また、当時においてすでに硬化していた体制を、“兄弟国”の戦車をつっかえ棒にして恢復しょうと欲していた人々も、みながみな「ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。」という状況にあったものである。」
 堀田善衛は、鴨長明の『方丈記』を、このように読みました。古典を現代において読むとは、まさにこんな風なのだなと、心から感心しました。

 先に書いた『方丈記私記』のオメガは、定家の歌論にある「本歌取り」のこと。大変面白い議論を展開していますが、もうすでに多く書き過ぎたし、長明とはすこし離れるため、此処では触れません。堀田善衛の『定家明月記私抄』を読むだろう機会に、その問題に立ち戻りたい。
 

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