アンジェイ・ワイダ監督 『カティンの森』
10年前、ポーランドの古都クラクフを訪ねたとき、街の一角にひっそりと、「KATYN」と書かれた木製の十字架が立っているのを、見かけました。前日、アウシュヴィッツとビルケナウの強制収容所を訪ね、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の跡を見て、強い衝撃を受けた後でしたが、この十字架によって、ポーランドの悲劇は、ナチス・ドイツからだけではなく共産主義国家・ソ連によってももたらされたことを思い起こし、クラクフがまた、カティンの森虐殺事件と何らかの関係ある街であることを、知りました。60㎞先にあるアウシュヴィッツと600㎞の距離にあるカティンの森。クラクフの歴史にとっては、ともに忘れることのできない地名です。
ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督作品 『カティンの森』(原作名 Katyń)は、このクラクフを舞台に、カティンの森事件の被害者家族の苦難と悲劇について語り、事件の真実に迫った映画です。1943年4月、ドイツ軍は、ロシアのスモレンスク西方の保養地カティンの森で、数千人のポーランド人将校の銃殺死体を発見し、ソ連の秘密警察の仕業と見られる、と発表しました。しかし戦後は、ナチスによるでっち上げとされてきましたが、1990年になって初めて、ゴルバチョフが、ソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めました。
カメラは、ソ連軍に連行されたまま行方不明となった、ポーランド軍将校の夫たちの生存と帰還を待ちわびる家族を、追いかけます。彼女らの多くは、ナチス・ドイツ占領下のクラクフでは、ドイツ軍への抵抗者であり、ソ連による「解放後」は、赤軍に対する抵抗者でした。その一人、大将の妻ルジャは、ドイツ軍から出頭命令をうけ、彼らによって発見されたカティンの森の虐殺現場の映画を見せられます。そして、アウシュヴッツへの収容を示唆しながら、この事件を反ソ宣伝に利用しょうと協力を求めるドイツ軍将校の要求を、決然と拒みます。解放後、赤軍の宣伝部隊は、クラクフの街なかで、カティンの森事件をナチスによる犯罪だとしたプロパガンダ映画を、上映します。見ていたルジャは、ソ連軍兵士に対して、これは嘘だと、厳しく静かに抗議しつづけます。この映画のなかで上映されている2本のモノクロームのドキュメンタリー映画。どちらも「カティンの森事件」の遺体発掘現場を映し出しています。しかし、上映目的は正反対で、一方は反ソ・プロパガンダであり、他方は、ナチスへの責任転嫁のためでした。とぢらも、被害者への哀悼の気持ちは全くなく、歴史の真実を記録しょうとの意志も、皆無でした。これら2本の映画を包摂したワイダ監督の『カティンの森』のラストは、ソ連軍兵士が、ポーランド軍将校たちの後頭部を、ピストルで撃ちぬくシーンが淡々とつづきます。将校たちは、「天にまします我らの父よ」と主の祈りを唱えながら、射殺されていきます。幾重にも折り重なった遺体は、ブルドーザーによって容赦なく、土砂に埋められていきます。最後に、漆黒のスクリーンにレクイエムが流れます。そして音楽が終わり、無音のなか、長いエンド・クレジットが続きます。ワイダ監督は、自らの父親も犠牲になった『カティンの森事件』を、こうして映画として記録したのです。
2時間にわたる「カティン犯罪の巨大な虚偽と残酷な真実の物語」(ワイダ)は、観客に対して、安易な怒りや悲しみを厳しく拒絶し、歴史の真実に向き合い記憶しつづけることを、求めています。
去る4月10日、「カチンの森事件」70周年の慰霊祭に向かっていたポーランド大統領専用機が墜落し、カチンスキ大統領夫妻をはじめ、乗客・乗員132名全員が死亡しました。この映画を見、「カチンの森事件」を自らの記憶に留めんとするもののひとりとして、墜落事故で亡くなった方々の霊に、謹んで哀悼の意を奉げます。
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