加藤周一と『平家物語』を読む
高校・大学時代、嵯峨野に住んでいた私は、人気のない早朝や夕方に、広沢池から大覚寺にいたる北嵯峨の道や、小倉山ふもとの竹林の小径を、好んで散策しました。ここが『平家物語』ゆかりの地であることは、高校の古文の授業や寺社の案内板などで知り、いずれこれは読んでみたいと思いつつ半世紀近くがたちました。今回、吉村昭の現代語訳(『吉村昭の平家物語』講談社文庫08年刊)で読んでみて、はじめて平家物語の全体像が見え、懐かしい地名に再会しました。(絵は、土佐左助筆『壇ノ浦の戦い』江戸初期)
「これより西、遍照寺の奥の大覚寺という山寺の北の菖蒲谷に、維盛どのの北の方と若君、姫君がひそんでおります。(六代御前と文覚)」(吉村訳、以下同じ)
壇ノ浦での平家滅亡のあと、源氏はその残党狩りを各地で行いますが、これは、清盛直系のひ孫の行方を、ある女房が密告する場面です。「遍照寺・大覚寺・菖蒲谷」は、いずれも北嵯峨にある、私には懐かしい地名です。昨秋来、加藤周一著『日本文学史序説』に従いつつ日本の古典文学を読んできましたが、平安時代の『源氏物語』や『今昔物語』の舞台は、ほとんどが京都であり、『池亭記』や『方丈記』にいたっては、京都という町そのものが主人公といってもよいほどです。懐かしくしかも土地勘があるので、これら古典の読書によって、出身者としての心地好さと便利を、享受することができました。『平家物語』も例外ではありません。これらはすべて、京都に住む貴族や僧侶によって、平安貴族王朝社会について書かれたものだから、当然のことです。ただ今回、『平家物語』を読んでいて、いま住んでいる群馬の地名が出てきて、おやっと思いました。
「信濃の国の武士たちは、すべて義仲にしたがい、また、上野コウズケの国でも父義賢との縁で多胡郡タゴゴオリの武士たちが、みなつきしたがった。平家をほろぼすという源氏の長年の悲願をとげようとしたのである。(木曾義仲)」
「義経は、「馬をたくみに乗りまわす若武者たち、走りよってけちらせ。」と命じた。武蔵の国の住人、みをの屋の四郎、同じく藤七、同じく十郎、上野の国の住人、丹生ニウの四郎、信濃の国の住人、木曾の中次の五人が、馬を走らせ突きすすんだ。(扇のまと)」
前者の「多胡郡」は、現在私の住んでいる土地の古名であり、「丹生」は隣の富岡市にある地名です。『平家物語』の一方の主人公である源氏は、東国の武士たちからなる集団であったことを、再認識しました。この東国の武士団について『平家物語』は、京都や西国のそれと比較して、次のように評価しています。
東国武士団評 ①地方豪族は最低でも、500騎以上の武士をかかえている。②馬に乗れば、どんな悪路でも落ちない。③親や子の死骸を乗り越えて戦う。
西国武士団評 ①親が討ち死にすれば回向の法事をし、喪があけてから攻める。②子が死ねば悲しみなげいて攻めない。③兵糧米がなくなれば、春に田をつくり秋に刈りとってから攻める。④夏は暑いといい、冬は寒いといってきらう。
平家が貴族王朝的性格を残し、源氏がそれとは別物であったことが、的確に表現されています。それにしても、紫式部が『源氏物語』で、地方武士を評して、わけのわからない言葉をしゃべる粗忽な田舎者、と見下していたのとは、対照的です。また、慈円が『愚管抄』のなかで、頼朝配下の武士たちの規律正しい立ち居振る舞いに、驚きの声をあげていたことを、思い出します。時代は確実に、平安貴族社会から鎌倉武家社会へと転換したのです。
清盛の権勢最高潮のときの、大変印象的なエピソードを、ひとつ紹介します。
「清盛は十四、五歳の男児を三百人やといいれて、かれらの髪の上だけ残して下のほうを剃らせ、赤い衣服を着させて京都の町の中を歩かせた。」そして、平家一門の悪口をいうものに対しては、集団で家へ押し寄せ、家財道具を奪い、清盛の邸へと引き立てた。だから、平家を批判するものはいなくなった。(平家全盛)
加藤周一氏の『序論』は、『平家物語』について、次のように論じています。
平安朝宮廷文学が、書き手も読み手もともに、京都の貴族知識人たちであったのに対し、13世紀鎌倉時代に成った『平家物語』は、書き手は依然貴族知識人であり続けたが、読み手(聞き手)は、大衆と地方に拡がり、このため『平家物語』には、大衆の価値観が反映した新しい型の人物が登場した、と指摘しています。
これら新しい型の人物たちは、まずは理想化されない人物像として描かれています。清盛は、宮廷の権威を冒す粗暴な独裁者で、無慈悲で呪われた人物として登場します。義仲は、無学粗暴な田舎者であり、義経は、色白のチビで出っ歯だ、と描かれます。他方、これらの人物は、個性的かつ行動的な性格を漲らせて登場しています。清盛は怒るとすぐ行動し、法皇も怖れず、死の直前にも源氏との戦いを考え続けます。義仲は天才的戦術家であり、たったの三百騎で六千騎の敵を攻撃する勇敢な武士であり、義経は敏捷で決断力に富むリーダーであったことが、語られます。こうした魅力的な登場人物こそが、「色彩的で七五調のよく響く文体」とともに、『平家物語』が時代を超えて強く訴えてきた理由だと、加藤氏はいいます。
加藤氏は、『平家物語』が何故、このような人物を描き、東国武士の活動を活写することができたのか、と問います。それは、新しい聞き手として登場した大衆の願望であったとともに、作者や語り手(複数)のなかに、保守的な価値観をもった貴族知識人の側面と鎌倉時代の大衆の側面があったためだ、としています。そしてその大衆とは、「鎌倉仏教に説得されなかった大衆であり、世俗的で、実際的で、しばしば感傷的で、しかも常に生きていくための決断力と団結(家族、武士団、その他)を必要としていた大衆である」と結論づけました。加藤氏のいう「鎌倉仏教」は、仏教の彼岸的・超越的な面を強調し、日本の土着世界観に深く打ち込まれた楔であった、と評価した新仏教を指します。その鎌倉仏教に説得されなかった大衆は、当然、日本に長年持続してきた土着的世界観の側にいる人びとです。第二の転換期とされた鎌倉時代にも、一方に彼岸的・超越的とされた鎌倉仏教があり、他方に土着的世界観を持続させている武家社会、『平家物語』の世界が、並存していたのです。
コメント