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2010年6月 8日 (火)

新内閣の増税論議は如何に?

今日、菅直人内閣が発足しました。普天間基地の辺野古崎移転の対米約束という、致命的な瑕疵を背負ったままの船出となりました。この内閣が、東北アジアの緊張を決定的に緩和し、日・韓・朝・中・露5ヵ国全域をカバーする、不可逆的で確固とした平和を構築することによって、在日米軍基地の存在を陳腐化し、そして、沖縄からも日本のすべての地域からも、米軍が存在しなくなることを、心から願います。普天間基地撤去こそが、東北アジアの平和構築に向けた、日本政府の意思表示の格好のチャンスであったことを思い返しつつ、再び政府が遠くない日に、こうしたチャンスをわがものにすることを、願わずにおれません。

 すべてのマスメディアは、普天間基地問題を、政治の争点からはずし始めました。そして、これに代わって登場してきたのが、消費税増税問題です。昨年の衆院選挙で掲げた民主党のマニフェストの実現を拒んだのは、「税収の大幅減」が原因だと、新しい民主党幹事長は、昨夜のニュース番組で、弁明しました。これを受けたキャスターたちは、「では新政権は、消費税増税論議に踏み切るのですね」と、当然の如く念押しします。税収不足=増税=消費税増税は、マスメディアの世界ではすでに、定式化されているようです。菅直人氏は、財務大臣に就いたあと、増税の必要性について幾度か言及しています。「増税しても使い道をまちがえなければ景気はよくなる」という発言です。メディアは、菅氏が消費税増税に踏み込んだ、と飛びつきました。その菅氏が首相に就任。いよいよ消費税増税か、とメディアはいろめき立っているのです。はたして、そうなのか?
 
菅氏が財務大臣のとき、政府税制調査会専門家委員会委員長に招聘した神野直彦氏の言説に、大切なヒントが隠されていると思います。神野氏は、メディアの意図する消費税増税路線とは、正反対の立場を明確にしています。しかも、反・新自由主義の強力な論客のひとりです。勿論、神野氏の思想と提言がそのまま、菅新内閣の方針と具体策になる保証はありません。しかし、ブレーンのひとりとして、神野氏が菅新首相とその内閣に大きな影響を及ぼしうる立場にあることは間違いなく、国民世論が粘り強くバックアップすれば、神野提言の現実化は、けっして絵空事ではないものと確信します。では、その神野氏の思想と提言とは。神野直彦著『「分かち合い」の経済学』(岩波新書2010年4月刊)で、このことを確認しておきたい。

 この書のキーワードは、題名にある「分かち合い」です。神野氏(以下著者)は、スウェーデン語で「社会サービス」を意味する「オムソーリ(omsorg)」が、その原義が「悲しみの分かち合い」であり、人間を幸福にする経済システムを採用しているスウェーデン社会の秘密を解き明かす言葉だ、と指摘しています。
 著者は、1991年のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅が、宇沢弘文氏のアドバイスをうけて、二つの環境破壊を指摘し、「自然環境や人的環境といった、市場の力だけでは保護されない公共財を保護し、保全すること」は政府の使命だと教え諭した、と紹介しています。そして、「分かち合い」とは、人間と人間との「仲間」としての結びつきともいうべき人的環境の破壊を、克服することである、と主張します。これは、著者の基本的な立場の表明だといえます。

 では、日本社会の現実は、どうなのか?
 新自由主義の改革路線は、「失業と飢餓の恐怖」を復活させ、それを鞭にして「経済的活力」を高める、というものでした。時の首相は、「格差と貧困」を積極的に肯定しました。こうした新自由主義の歴史的な反動政策によって、経済的危機が社会的危機に飛び火し、国民は「失業と飢餓の恐怖」に悄然と立ち尽くしています。しかも、家族とコミュニティを支えてきた「人間の絆」が崩壊しているのです。まさに日本社会は、「人的環境」が破壊されている。しかも、新自由主義が推進する経済の活性化とは、技術革新による活性化ではなく、消極的減量経営、人件費などのコスト削減による生産性の向上に過ぎません。
 「新自由主義が称賛する企業とは、技術革新に果敢にチャレンジする企業ではない。容赦なく人間を切り捨てる「無慈悲な企業」なのである。そうした「無慈悲な企業」には、新しい産業を創設し、産業構造をより人間的な社会の実現を目指していく使命など担いようがないのである」と、著者は厳しく新自由主義を批判します。

 では、「新しい産業構造」とは、何をさすのでしょうか。それは、農業社会-工業社会-知識社会といった、経済社会発展の延長線上に位置づけられます。
 「これまでの大量生産・大量消費に代わって知識社会では、知識によって「質」を追求する産業、より人間的な生活を送るために必要なものを知識の集約によって生み出していく産業、すなわち知識産業が求められる。それと同時に、人間が機械に働きかける工業よりも、サービス産業という人間が人間に働きかける産業が主軸を占めるようになる」。そして、「工業社会から知識社会へ転換していくためには、産業構造を転換する方向に投資が向かわなければならない。そうしなければバブルが生じ、バブルが弾けるというバブル経済が繰り返されるだけである。しかし、新自由主義にもとづけば、産業構造を転換する方向には投資は向かわない。バブルの発生と崩壊のドラマが、繰り返し上演されるだけである」。

 この知識社会への移行条件として、政府は、育児や介護の福祉サービスを提供する必要があります。家族内で無償労働に従事していた女性も、知識社会の労働市場に参加するようになるからです。もし、こうした福祉サービスが提供されないと、労働市場がパートとフルタイムに二極化してしまい、格差と貧困が噴出してしまう。さらに、新しい産業が要求する能力を修得するための教育サービスを充実させる必要があります。そのためには、「誰でも、いつでも、どこでも、ただで」教育サービスを受けることができることが、前提となります。しかし、日本の現状は、「こうした知識社会への参加条件が保障されないために、日本では知識産業への投資が進まず、バブルを繰り返しながら、格差と貧困に苦悩している」と著者は、断じています。
 知識産業やサービス産業が基軸となった産業構造に転換するために、三つの基本戦略が提起されます。

 ①人間の人間的能力を高めること。そのためには、「誰でも、いつでも、どこでも、ただで」提供される教育サービスが必要。
 ②人間の健全な生命活動を保障すること。そのためには、医療と環境を重視しなければならないし、この医療と環境こそが、知識社会の「技術革新と市場の宝庫」である。
 ③社会資本=信頼し合う人間の絆の培養。
 そして、この基本戦略を実現するためには、強い社会的セーフティネットが張られる必要がある、と指摘しています。
 

 著者は「財政」を次のように定義します。「財政とは共同の困難を、共同負担によって共同責任で解決するための経済である。つまり、財政とは本来、「分かち合い」の経済だということができる」と。新自由主義者は、財政危機だから「分かち合い」を充実させるどころか、縮小すべきだと主張します。著者は反論します。財政危機とは、財政が機能不全に陥り、財政の使命である共同の困難を解決できない状態のことである、と。さらに著者は、財政収支が不均衡という意味での財政危機は、共同の困難が解決できないために生じている経済的危機や社会的危機の結果である。こうした危機が発生すれば、財政支出は必ず不均衡になる。

 新自由主義者は、「均衡財政」と「小さな政府」を実現させなければ、社会は衰退してしまうと主張しています。しかし著者は、「小さな政府」でも財政支出は抑制できない、と反論します。「小さな政府」は、「分かち合い」の社会的支出を抑えるために、格差と貧困、社会的統合の困難、社会的亀裂などを招き、犯罪行為や社会的逸脱行為が蔓延する。このために、強制力を行使する社会的秩序維持機能(治安と警察)を強化せざるを得なくなる。また、貧困と格差の国際版は、世界秩序の混乱となり、それを鎮圧するために膨大な軍事費を費やすことになるからだ、と。
 いずれにせよ、財政収支の均衡のためには、増税と経費削減しかありません。しかし、新自由主義者にとって
増税を容認することは困難です。富める者がますます富めるように、富める者の負担を削減することこそが、彼らの使命なのです。だから新自由主義者の増税についての主張は、租税負担構造を経済力に応じて、富める者が貧しき者をいたわり、富める者が多くを負担する累進的負担構造を、貧しき者が多くを負担する逆進的構造へと変えていこうとします。「大きな政府」を支えた所得税・法人税中心税制を破壊すること、市場が分配する所得を歪めない中立的税制こそ望ましい、と考えます。つまり「広く薄い負担」「所得から消費へ」、増税は消費税で、となるのです。
 
著者は、新自由主義は日本では、三つのドグマを常識として定着させることに成功した、と指摘します。それらは、①
財政支出における「小さな政府」、②租税収入における「経済的中立性」、③財政収支における「均衡財政」、というドグマです。「常識は時代の勝者によって形成されやすいからである。常識が形成されるまで、繰り返しメディアを動員して宣伝できることは、勝者の特権である。」
 日本では、
無駄な公共投資を経験した国民にとって、増税への抵抗は大きい。だから「分かち合い」は日本では不可能だ、と新自由主義者は主張します。著者は、「論理は逆である。「分かち合い」ではない支出だから、増税に応じないのである」と反論します。また彼らは、日本国民はヨーロッパ並みの消費税増税に応じないと嘆きます。しかしそれは、ヨーロッパ並みの「分かち合い」 が実現していないからだと、著者は看破します。
 最後に、
日本税制の矛盾について。
 日本の個人所得税負担率は、90年から顕著に減少し、先進国では最低水準になっていること。また、法人所得税負担率を90年から激減させた唯一の例外国家であり、先進国の平均以下であること。「それにも関わらず日本では、増税の選択肢は消費税しかないとの常識が、大手を振って罷り通っている。しかも、躍起になって消費税は逆進的ではないという常識を形成しょうとしている」。
 「分かち合い」の「大きな政府」であるヨーロッパ諸国は、消費税の負担が重いことは事実である。逆に「分かち合い」の「小さな政府」であるアメリカは、消費税つまり消費型付加価値税を導入すらしていない。アメリカは所得税と法人税を中心とした租税制度が確立されている。
 
「分かち合い」で生きていく社会であれば、貧しい国民も負担し合う。租税さえ支払えば、無償の公共サービスで生活を営むことができる。・・・・政府が秩序維持機能しか担わず、自己責任で生きていく社会を目指すのであれば、秩序維持機能の負担は富める者が負担する。
 ところが、日本はアメリカと同様に、「分かち合い」の「小さな政府」を目指している。しかし、自己責任で生きていく社会なので、秩序維持機能の費用は、アメリカのように貧しき者は負担しなくてよいとはいわない。自己責任で生きていけという一方で、ヨーロッパを見習い、貧しき者も消費税を負担しろという。しかし、ヨーロッパは「分かち合い」の社会である。日本は支出では「分かち合い」せずに、租税で消費税を増税しょうとしても無理である。もしこれを強行すれば、社会統合が破綻することは目に見えている。

 怒りを込めて著者は、日本の税制の矛盾を指摘しました。
 ややまとまりを欠いた紹介になりましたが、一読を薦めたい新書です。果たして、菅新内閣の打ち出す増税論議は、どのようなものとなるのか。それは、神野氏の思想や立場との遠近関係は、どのようなものなのか。注意深くみていきたい。

 

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コメント

要するに新自由主義は米国のような小さな政府を米国が採っている所得税と法人税を中心とした税制ではなく、大きな政府であるヨーロッパ諸国が採っている消費税中心の税制で実現しようとしていることを矛盾として神野氏は指摘しているのでしょうか?
その解決策として分かち合いの精神を主張しているのだろう?
分かち合いの精神は大賛成ですが、それは米国のような所得税と法人税中心でないと無理なのでしょうか?
消費税中心にしても食料品は免税または低税率などの弱者対策によって同じような効果が期待できないのだろうか?
私はどれがいいとか言えるものを持ち合わせていないが、いずれにしても増税をしなければならない現実は変わらないと思う。
その際もっとも大切なのは権力者(政治家・公務員)が定数削減・歳費削減・政党助成金や天下り制度の見直し等々で範を示すことではないだろうか。
そのことが分かち合いの精神そのものと思うのだが・・・ 

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