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2010年6月 1日 (火)

慈円著『愚管抄』

Jien4    加藤周一は『日本文学史序説』において、平安朝文化最後の知識人たちの、新時代に対する反応を、次のように整理しています。「定家は文化を擁護し、建礼門院右京大夫は失われし時をもとめ、鴨長明は退いて観察し、慈円は日本語ではじめて「歴史」を書く」。各々の編纂・著作は、『新古今和歌集』『建礼門院右京大夫集』『方丈記』そして『愚管抄』と続く。
 今回は、この慈円の『愚管抄』の項を、大隈和雄著『愚管抄を読む-中世日本の歴史観』(講談社学術文庫 96刊)の援けも受けながら、読んでみました(肖像は狩野探幽画)。

 慈円は1155年に、摂関家の一員として生まれました。父・藤原忠道は、37年間にわたり摂政関白をつとめ、藤原氏の氏長者として貴族社会の頂点に立っていた人。13人の兄弟のうち、兄4人は、摂政関白や太政大臣の地位につき、6人の兄弟は出家し、そして3人の姉妹は皆、3代の天皇の皇后になっています。天皇家をのぞけば、当代に並ぶもののない高貴な家系の出でした。
 慈円の生まれた翌年、保元の乱が起こりました。
 「保元元年七月二日、鳥羽院ウセサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云コトヲハヲコリテ後ムサノ世ニナリニケルナリ」。鳥羽法皇がお亡くなりになった後、反乱事件が起こり、それ以後は、武者の世になってしまった。本書は、この反乱の経過と理由を明らかにすることが目的だ、と書いています。この内乱で、父忠道と祖父忠実・叔父頼長が対立し、頼長が敗死します。慈円は、1225年に70歳で亡くなりますが、慈円の生きた70年間は、平安朝が崩壊し鎌倉幕府が誕生した、まさにそのときでした。年表から主な事件を拾うと、大きな変革の時代であったことがわかります。
  1159年 平治の乱
  1167年 平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
  1180年 源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
  1185年 壇ノ浦合戦、平氏滅亡。
  1192年 頼朝、征夷大将軍に任じる。
  1212年 鴨長明『方丈記』成る。
  1219年 実朝暗殺され、源氏正統断絶。
  1205年 『新古今和歌集』成る。
  1220年 慈円『愚管抄』成る。
  1221年 承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。
  1225年 北条政子没。
 慈円は13歳で出家し、1192年38歳で天台座主の地位に昇り、僧侶としての最高位に立ちます。その頃の政治の中心は、後鳥羽天皇と関白兼実、そして関東の頼朝でした。兼実は慈円の兄で、頼朝の支持を受けて摂政・関白へと昇りつめました。慈円は、後鳥羽天皇から祈祷僧として信任を受けるとともに、和歌によって親しく接していました。このように慈円は生涯、政治の中心に限り無く近い位置にあり、まさに歴史の生き証人として『愚管抄』を書いたのでした。しかも、保元の乱以降の歴史について、当事者からの直接の聞き取りや権力中枢から得た生の情報をもって、書き記したのです。
 平氏没落の一齣。清盛の子重衡が一谷の戦に敗れ、奈良に送られる道中、伏見の日野の近くに通りかかります。そこには、重衡の妻が身を寄せている姉の家があったのです。「コノモトノ妻ノモトニ便路ヲヨロコビテヲリテ、只今死ナンズル身ニテ、ナクナク小袖キカヘナドシテスギケルヲバ、頼兼モユルシテキセサセケリ」。「重衡は護送されていく途中で妻のいるところを通りがかったのを喜んで乗物から降り、今すぐにも死ぬ身を嘆き、泣く泣く妻の差し出した小袖に着替えて身なりを正したりして時を過ごした」。記述が、ドキュメンタリー映像のように、生き生きとしています。
 慈円は、新興勢力である武士を、どのように見ていたか。
 1195年、頼朝上洛し、東大寺再建供養会に臨んだ際の光景。「供養ノ日東大寺ニマイリテ、武士等ウチマキテアリケル。大雨ニテアリケルニ、武士等ハレハ雨ニヌルルトダニ思ハヌケシキニテ、ヒシトシテ居カタマリタリケルコソ、中々物ミシレラン人ノタメニハヲドロカシキ程ノ事ナリケレ」。「折からの大雨にも武士らは雨にぬれることなどさらさら気にもとめない様子でしっかりと居ずまいを正して控えていたが、それはもののわかる人にとってはなかなか驚異の念を禁じえない場面であった」。この場には、頼朝とともに後鳥羽天皇も出席しています。関白兼実および天台座主慈円も、同席していたのではないかと想像します。では、そこに同席したであろう貴族や僧侶は、どうであったのでしょうか。「ああ、大雨が降ってきた」と私語を交わしたり、ざわざわと建物のなかに逃れたりしたのではないでしょうか。だからこそ、慈円が目の当りにした関東武士たちの毅然とした居ずまいは、「ヲドロカシキ程ノ事」であったのだろうと思います。真実は微にあり。慈円には、こんなところに、新しい武士の時代を予感させられたのでしょう。
 しかし、天台宗の最高位にあった慈円は、新仏教には理解を示しません。法然の専修念仏を取り上げ、次のように記します。「「コノ行者ニ成ヌレバ、女犯ヲコノムモ魚鳥ヲ食モ、阿弥陀仏ハスコシモトガメ玉ハズ。一向専修ニイリテ念仏バカリヲ信ジツレバ、一定最後ニムカヘ玉フゾ」ト云テ、京田舎サナガラコノヤウニナリケル」。さらにこの教えは、貴族や僧侶の間でも、広まっていった。慈円は、この教えを「人びとを従わせていく悪魔」だと呼び、「マダシキニ真言止観サカリニモアリヌベキ時、順魔ノ教ニシタガイテ得脱スル人ハヨモアラジ。カナシキコトドモナリ」。「真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである」。ローマ法王が、カルヴィンやルターを否定したのと同じ。天台座主慈円としては、当然のことであったのでしょう。しかし、新仏教の動向を無視することなく、しかもその教えが拡がっていったことを、客観的に記しています。
 慈円自身が登場する場面も、記述されます。1208年、法勝寺の九重塔が落雷により焼失します。後鳥羽上皇は、慈円の勧めで塔の再建を命ぜられます。このとき、中国にもいったことのある栄西が責任者となって、7年目に塔を再建し、落慶供養を終えました。栄西は、僧正への昇格を望み、ついに昇進します。「院ハ御後悔アリテ、アルマジキ事シタリトヲホセラレケリ。大師号ナンド云サマアシキ事サタアリケルハ、慈円僧正申トドメテケリ。猶僧正ニハ成ニケルナリ」。栄西は「大師号を申請するなどという見苦しいことをして、そのことについても取沙汰されたが、慈円僧正が反対して大師号授与のことは沙汰やみとなった」。栄西は、臨済宗の租とされる人。また、日本に中国から抹茶による喫茶法を導入し、日本最初の茶書『喫茶養生記』を著わした僧侶でした。
 慈円の下には、関東の詳細な情報も集まってきました。実朝暗殺の場面は、詳細で臨場感に富んでいます。そして、暗殺者公暁と殺された実朝については、大変厳しい見方をしています。「猶々頼朝ユユシカリケル将軍カナ。ソレガムマゴニテ、カカル事シタル。武士ノ心ギハカカル者出キ。又ヲロカニ用心ナクテ、文ノ方アリケル実朝ハ、又大臣ノ大将ケガシテケリ。又跡モナクウセヌルナリケリ」。「頼朝は何といってもひととおりでない立派な将軍であった。その孫にあたる者がこのようなことをしでかした。武士としての心ばえある者の中にもこんな者が出たのである。また愚かにも武人としての用心もせず文の方面にばかり心を入れた実朝は、大臣大将の面目を傷つけたのであった。こうして源氏もまた跡もなく消えていったのである」。兄兼実の支持者頼朝評価とその子孫の、武士としてのだらしなさとが、見事に対比されています。『愚管抄』は、この実朝暗殺の翌年に書かれていますから、歴史の記述というよりも時事評論の範疇に入れるべきかもしれません。
 以上のように慈円は、保元の乱から承久の乱までの政治の動きを丹念にたどり、この時代の歴史を支える道理を解明しょうとしますが、「保元以後ノコトハミナ乱世」であって、そこには何ら秩序があるようにはみえません。そこで慈円は、過去に遡っていきます。神話時代からの日本の歴史が、時代を追って述べられていきます。

 以上は主に、大隈和雄著『愚管抄を読む-中世日本の歴史観』の第1章の論文にもとずき、『愚管抄』のなかでもっとも生き生きとした描写のある場面を、取り上げてみました。さて、加藤周一氏は、「慈円は日本語ではじめて「歴史」を書く」と『序論』に書いています。これはどういうことなのか。加藤氏の『序論』に戻ります。
 加藤氏は、慈円の『愚管抄』の形式的な特徴として、「史書をつくるのに、漢字混りかたかな書きを意識的に採用した」ことだ、と指摘しています。採用理由は二つ。一つは、学問をした人でさえも、漢字を読んで「ソノ義理ヲサトリ知レル人」(義理=意味)は少なく、二つに、本来の日本語は、誰でもその意味を知っていて、それだけで多くを理解できるからだ、と慈円は言います。すなわち、「此ノコト(「ハタト、ムズト、シャクト、ドウトトイフ詞」)ノヤウナルコトグサニテ多事ヲバ心得ルナリ」(コトグサ=言種=言葉のこと)。加藤氏の評価。「そもそも日本語による表現の可能性を語り、このように明示的であったのは、おそらく慈円が最初である。『正法眼蔵』をあえて日本語で書いた道元の見識とならんで、画期的な独創であった」。漢字かな混じり文採用理由の二番目について、大隈和雄さんによる要約は次のとおりです。「自分が何かをいいたいと思い、心の中に積もってくることを人にわかってもらおうとすると、そのことがらが起こった場所や状況を相手に的確に伝えたいと思うであろう。そういう時に、ムズト、ドウト、ヒシトというような種類のことばが極めて大きな働きをすることになるわけで、そういうことばを使えば、いいたいこと、伝えたい状況が何の苦もなく相手に伝わるのである。和語というものの本体はそこにある。学識のない当節の人々に、歴史について理解してもらいために、自分はそうした種類のことば、つまり伝統的な文章や古典を重んずる人からは、嘲笑されそうなことばを、数多くとり入れて『愚管抄』を書いたのである」。加藤氏の言う「慈円は日本語ではじめて「歴史」を書く」は、以上のことを指しています。
 加藤周一氏は、『愚管抄』の内容の特徴として、歴史上の事実相互の関係を「道理」によって説明しょうとした点にある、と指摘しています。上記の形式的な特徴以上に、こちらの内容特徴、「世ノ移リ行」きを「道理」の実現過程として理解しょうとしたことこそが、『愚管抄』理解の肝心な点です。しかし、加藤・大野両氏の著作での説明を読んでも、いまだよく理解ができません。しかも既に、多くのことを書きました。今一度、じっくり読む機会をつくって、慈円の言う「歴史の道理」について学んでみたく思います。 
 
     

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