加藤周一と読む『徒然草』
つれづれなるままに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。
日本文学のなかで、最も有名な冒頭文のひとつが、この『徒然草』序段の文章だと思います。この冒頭文に加えるに、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ・・・」(第七段)と、仁和寺の童子が壺をかぶってとれなくなる話(第五十三段)の三段が、私の読んだ『徒然草』のすべてでした。つまり、高校の古文の授業で読んだだけ。(写真は仁和寺山門、92年撮影)
加藤周一氏は、「『徒然草』の独創的なのは、「心にうつりゆく事」のすべてを次々に記録したという一事である」と指摘し、だから教科書で断片を読むことは、吉田兼好の独創性を無視することだ、と厳しく警告しています。そこで、「心に移り行くよしなしごと」(「心のなかを浮かび過ぎるとりとめもない考え」佐藤春夫訳、以下同)をじっくり、追いかけてみたい。
政治について。「民の困苦も国の疲労もかえりみ(二)」ない政治家のふるまいに腹をたてる一方で、犯罪の背後に、政治が悪く、民衆が飢餓の苦痛にあるからだ(百四十二)と、喝破します。そして政治家は、「奢侈浪費をやめて民を愛撫し、農業を奨励する」べきだと、説きます。
政治家について。裁判の最中に、下級役人の乗ってきた牛が入り込んで、反芻しながら寝てしまう。「異常な怪事」だ「卜占を」と人々が騒いだところ、太政大臣実基の命で、牛を持ち主に返し畳を換えたところ、凶事は起こらなかった(二百六)。また、皇居建設の際、無数の大蛇が出てきてその祟りが怖れられたが、同じ太政大臣は、皆捨ててしまえばよろしい、といったので捨ててしまったところ、祟りもなかった(二百七)。この二段に、「吉凶は人によって定まるもので日に関係するものではない(九十一)」を加え、加藤氏は「偶像破壊的な現実主義」と評します。上二段、政治家の合理的判断に注目。
強欲な政治家も登場します。時の最高権力者、執権北条時頼の話。夜、部下を呼び出し、わずかの味噌を肴に愉快に酒を飲んだ(二百十五)。一方、他家に立ち寄った際、のし鮑・海老・牡丹餅のご馳走をよばれたあと、種々の染物を所望し仕立てて贈られた(二百十六)。勿論、兼好より100年ほど前の話。
すこし悲しい政治家の話。温順で尊敬されていた内大臣が、精神を病み、地蔵尊を田の水で洗っていたところを、家臣に連れ戻されます(百九十五)。この段、わずか数行の記述ながら、映像のようにくっきりと描写されています。
武士や貴族など政治家の話題とともに多いのが、僧侶の話。加茂競馬を木に登って見物していた坊主が、居睡りして落ちそうになったり(四十一)、密教の先生である僧都が、鼻つまりの病気から鬼の顔になって死んだり(四十二)と、ネガティブな話題がつづく。兼好ゆかりの仁和寺の法師については、冒頭に上げた酒盛りの席で童子に鼎の壺をかぶせてとれなくなったり(五十三)、八幡宮参詣の際、肝心の本堂に行かずに帰ってきて、本願達成と喜んだり(五十二)、美しい稚児を誘い出して一緒に遊んだり(五十四)します。僧侶の権威を引き剥がし、からかって止みません。そのもっとも典型的なのが、ある神社を参詣した上人の話。神前の獅子や狛犬が反対向きに立っていたのを見て、いわくありげな珍しさにいたく感心し、感涙を催します。ところが神官は、腕白どものいたずらだといって、なおしてしまいます(二百三十五)。
女性に対しては、理想と現実のはざまにあって、ポジ・ネガ両面が活写されます。女性の匂い(八)や髪の毛(九)や夜更けの化粧(百九十一)などに風情を感じ、千本釈迦堂へ参詣した折に、みしらぬ美女が言い寄ってきたことを自慢します。「姿も焚きしめた香料なども抜群な美しい女が人を押しわけて来て自分の膝に寄りかかって、香などまで移ってくるほどなので・・・(二百三十八)」と、好色な思い出に浸る、兼好の震えるような胸の内が、感じられます。他方、女性をこっぴどく非難します。女の根性は曲っている、自我が強い、物の道理を知らず迷信に陥りやすい、浮気っぽくおしゃべりで、人を欺き、不正直で愚劣である(一〇七)、と滅茶苦茶に腐します。また、家庭向きで子をつくり愛しく育むなど、「良妻賢母主義には激しく反発」(加藤氏)します。だから、妻を持ちたくないし(百九十)し子供もないほうがいい(六)のです。これらコインの裏表のような女性評は、その筆法の強烈さからみて、兼好の体験的女性論なのかなと想像します。
酒について。男は多少は飲めたほうがいい(一)。しかし、宇治のある男が下僕に酒を飲ませたところ、酔っ払った下僕が兵士に立ち向った挙句に、主人を切りつけて怪我をさせた(八十七)。百七十五段は、21世紀ののん兵衛に、是非とも読んでもらいたいところ。そこには、酒を無理に飲ませておもしろがったり、二日酔いや記憶をなくしたり、思慮深い人が「無分別に笑いののしり、多弁になり、烏帽子は横っちょに曲り、装束の帯や紐などはほどけたままに、裾をまくって脛を高く蹴り上げたはしたない」格好をしたり、酔った女がつまみの肴を人の口に押し付けたりしています。年寄り坊主が、片肌脱いで、身をくねらせたりもします。怒り上戸や泣き上戸の人も出てき、喧嘩をしたり怪我をしたり、まことに厭うべき酒です。このように、兼好は散々、酒をけなしたあとで、けろっとして云います。酒は「また自然と捨て難いときもあるものである」。月の夜、雪の朝、花の下の盃、友人と飲む酒、旅の宿や野山で飲む酒、偉い人からもう少し飲んでとすすめられた酒、酒を飲んで親密になったことなど。「いろいろ欠点も挙げて来たが、それでも、上戸というものは愉快で無邪気なものである」と、結局兼好は、大の酒好きだったのです。
兼好は、読書人です。「ひとり燈火に書物をひろげて見も知らぬ時代の人を友とするのがこのうえもない楽しいことである」といい、特に古典に、心に訴えるものが多いといいます(十三)。だから、身のまわりに日用品が多いのは見苦しいのだが、書物が積み込んであるのは例外(七十二)なのです。読書は「見ぬ世の人を友とす」こととは、達見。書かれた事(書物の内容)に熱心ながら、書いた人(著者)について思いを寄せることが少なかったことに、気付きます。
登場する食べ物は、里芋(六十)・大根(六十八)・藜アカザの羹アツモノ(熱い吸い物五十八)・鯉の羹・雉・松茸・雁(百十八)・鰹(百十九)・鮑・海老・牡丹餅(二百十六)など。粗末なる物も贅沢なものもあります。「藜の羹」(アカザノアツモノ)は、粗末な食事の形容に使われますが、たまたま一昨日、アカザを近所の農家からいただき、はじめて吸い物にして食べました。硬いほうれん草の感じで、なかなか野性味があり、悪くありません。いまでは雑草扱いで、この辺でも、食べる人は少ないようです。勿体ない話です。
さてここまで、相互に関係のないいくつかの話題を、とりとめもなく紹介しましたが、加藤氏は、「ここには一貫した思想がない」と云いながらも、『徒然草』に繰り返しあらわれる「一種の態度の表現」として、無常について語られていると指摘します。人の死について、繰り返し語られるのです。あだし野の露が消える、鳥部山の煙が立ち去る、とは人の命が亡くなること、死を意味します。「人の世は無常」(七)で、栄枯盛衰は早く(二十五)、「いっさいの事物は信頼するに足りない(二百十一)」し、「人間の心というものは素直のものではない(八十五)」。また、「世に言い伝えていることは、・・・多くはみな虚言ソラゴトである(七十三)」。極まる人間不信。ではどうするのか。一人で楽しむという解決法。「生きているあいだに生を楽しむことをせずに、死に臨んで、死を恐れるのは不条理である。人がみな、生を楽しまないのは死を恐れていないからである。・・・死の近づくのを忘れているのである(九十三)」。他方、死後に望みを託す。「死後のことをいつも忘れずに、仏教の素養などがあるのが奥ゆかしい(四)」。
兼好は、万事信用できない。ではどうするか。「死後のことをいつも忘れずに、仏教の素養などがあるのが奥ゆかしい」。加藤氏は、この部分「実に生ぬるいもので、到底信念の人の言葉」ではなく、仏教が結論ではなかったのだ、と指摘します。「『徒然草』の著者の心には、次々とさまざまの思いが浮かぶだけで、どういう結論にも達することがなかったように見える」。
次の引用文は、加藤周一氏の『徒然草』読解の結論部分です。少し長くなりますが、引用します。
兼好にとっての究極の現実は、「よしなし事」のあらわれては消える心である。それぞれあらわれたときにに独立していて、相互に関連のない思いの連鎖。その連鎖に超越する仏がなければ、実体化された「心」もないだろう。まさに「我らがこころに念々のほしきままに来りうかぶも、心といふもののなきにやあらん」(二百三十五)である。これは日常的此岸性の内面化にほかならない。兼好は、たったひとりで、日本の土着世界観を内面化しょうとしていたのである。
二百三十五段上記部分の佐藤春夫訳は、「雑多な欲念が勝手に思い浮かんでくるのも、本心というものがないからであろう。心に一定の主体さえあったなら、胸中かように雑多なことがはいってはこないのであろう」。ここでいう「心」とは、加藤氏の云う「超越する仏」、つまり「超越的・彼岸的世界観」あるいは普遍的価値観。そうした「心」がなく、つまり、「日常的此岸性の内面化」=「日本の土着世界観を内面化」しょうとした、というのです。加藤氏の『日本文学史序説』の中心的な概念(コンセプト)です。鎌倉時代を過ぎ南北朝時代にいたっても依然、私には難解な言葉です。辛抱強く読みつづけていきたい。
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