« 茨木のり子展~わたしが一番きれいだつたとき~ | トップページ | 加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』-下- »

2010年9月10日 (金)

加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』-上-

Photo

 この肖像画に描かれた一休は、あの頓知と機転の一休さんや、やがて成人となって人々に尊敬されたという高僧一休宗純とは、大分イメージを異にします。加藤周一氏は、エッセー『二人一休』(ちくま文庫『三題噺』所収)のなかで、実在の歴史的人物の一休は、七言絶句からなる漢詩集『狂雲集』の著者で、そこから浮かび上がってくる著者の人格は、「禅をふまえて不羈フキ奔放、一切の社会的約束に捉われず、権威に屈せず、わが道を徹底して生き抜く、激しいものである」と紹介していますが、この肖像画の一休は、まさにこの歴史的実在の人そのものといえます。もう一人の一休は、子どもたちにも馴染みの一休で、江戸時代初期に創作された物語のなかのもの。実在した一休とは、深い関係はない、と加藤氏は云います。(紙本淡彩一休和尚像・墨斎筆・国立博物館蔵)

 加藤周一氏は『日本文学史序説』において、室町・戦国時代(14~16世紀)を「能と狂言の時代」(第五章)として括り、この時代の文化的特徴のひとつとして、鎌倉時代におこった禅宗が武士支配層に支持され、世俗化=芸術化したことをあげています。五山文学、肖像画、水墨画、寺院建築、庭園、茶道、能・狂言、等等。こうした武士権力に支持された大寺院を厳しく批判したのが、室町時代の一休宗純の『狂雲集』(15世紀後半)でした。一休は、宮廷や禅院から離れ、仲間内の文学とは全く違った独特の世界を発見した、と加藤氏は指摘します。では、一休宗純の発見した世界とは、どのような世界なのでしょうか。
 まず一休の生涯を、『序説』の記述をもとに、年賦風にまとめます。

 1394年 後小松天皇の落胤(異説あり)として京都に生まれる。
 1406年 慕喆竜攀ボテツリョウハンについて『三体詩』をテキストに漢詩を学ぶ。13歳。
 1414年 師の謙翁病没、瀬田川に投身未遂。21歳。
 1415年 近江堅田で華叟宗曇カソウソウドンに師事、一休の号をうける。22歳
 1420年 琵琶湖で、鴉が鳴くのを聞いて悟る。27歳。
 1428年 華叟病没。兄弟子養叟が大徳寺に在り、一休は市井に放浪しみずから狂雲と号す。
 1447年 大徳寺を去り、京都では瞎馿カツロ庵に住む。54歳。
 1467年 応仁の乱に会って、山城薪村(現・京田辺市)酬恩庵に移る。74歳。
 1469年 さらに兵火を逃れて大和・和泉を巡遊する。76歳。
 1470年 住吉薬師堂にて森女シンニョと出会う。77歳。
 1474年 勅命により大徳寺住持となる。81歳。
 1481年 酬恩庵にて入寂。88歳。

 一休の生きた時代は、農業生産力の向上と商業の発達を背景に、文化・芸術の花開いた時代ですが、反面、大火・洪水・飢饉のもと疫病が蔓延し、土民一揆、比叡山衆徒の暴走、守護大名間や同族間での兵火を交えた争いなど、地獄絵のような様相も呈していました。一方に支配層の富貴があり、他方に庶民層の貧困がありました。一休は庶民のなかにあって、武士支配層に保護された寺院、とりわけ自派の臨済宗に、厳しい批判の矢を放ちつづけました。こうしたことを背景に、一休宗純は、「大胆」で「奇抜」で「比類のない」(加藤『二人一休』)『狂雲集』に編まれた千余首の漢詩を、書きつづけたのです。加藤氏は、これらの漢詩を内容から3種類に分類しています。第一、臨済宗の禅を説くもの。第二、禅宗寺院の腐敗を厳しく批判するもの。第三、晩年の盲目の侍者森女との恋をうたったもの。以下この順に、『狂雲集』を読みます。加藤氏が『序説』で論じている詩を中心に、興味深いものをいくつかとりあげたい。読み下し文と現代語訳は、柳田聖山訳『一休宗純 狂雲集』(中公クラシックス)によりました(末尾の数字は柳田訳の通し番号)。

一.臨済宗の禅、または禅の哲学について
 そのほとんどが、私にはチンプンカンプン。一例を挙げます。(この漢詩については、加藤氏は触れていません)。

 僧、岩頭に問うて云く、古帆未だ掛けざる時、如何。頭云く、小魚、大魚を呑む。僧云く、掛けて後、如何。頭云く、後園の馿、草を喫す。
 寒温、苦楽、愧慚の時、耳朶、元来、両片皮。
 一二三兮、三二一、南泉、手に信せて 猫児を斬る。38

 ある僧が岩頭和尚にきく、ぼろぼろの(人工の)帆をあげず(自然の海の流れにまかすと)、いったい何処にゆきつくでしょう。頭、小魚が大魚をのみこむところ。僧、帆をあげると、どうなります。頭、驢馬が裏庭につながれて、(与えられた)草をくうところ。
 暑いの寒いの、苦しいの楽しいのと、自分勝手が恥かしくて、よくよく反省してみると、感情をあらわす耳たぶは、二つともに外に向いている/一二三、三二一と、力まかせの南泉の腕は、(耳の力を借ることなしに)、猫を殺してしまったじゃないか。(柳田聖山訳)

Photo_2  普通は、大きな魚が小さな魚を食べます。P.ブリューゲルの有名な版画にもあります。ここでは逆に、小が大を飲み込むという。下克上のことか? 驢馬は、粗食に耐えて従順。つまり、自然に放任すれば、下克上となりますよ。きちんと管理すれば、彼らは従順に働くものだ、といったところか。ただ別のところで、「七転八倒、衆生の苦、耐えず、小魚、大魚を呑むことを」169(人々の生の苦しみは、毎日が七転八倒の極で、「小魚が大魚を呑む」の悟りには、堪えられぬのだ)とあり、わかった様なつもりが、再び???の迷路へと迷い込んでしまいます。イワシ(小魚)の大群がイルカ(大魚)に対峙していたドキュメンタリー番組を思い出し、しかし、わかりません。
 後段。禅宗の公案に「南泉斬猫」と云うのがあるそうです。ある日、門弟たちが、一匹の猫をめぐって「猫に仏性はあるか否か」と論争をしていたところ、南泉和尚が現れ、「何か云い得たら切らずにおこう」といった。しかし、だれも答えることができなかったので、南泉和尚は猫を切ってしまった。のちに南泉和尚はこの話を弟子の趙州にしたところ、趙州は履いていた草履を頭に載せて立ち去った。南泉和尚は、「君がいたなら猫の命は助かったであろうに」といって趙州を賞賛した、という公案(曹洞宗大本山総持寺HP、倉田松濤画「南泉斬猫図」解説から)。これでは、なおなお判らない。

二.禅宗寺院批判
 自賛
 華叟の子孫、禅を知らず、狂雲面前、誰か禅を説かん。
 三十年来、肩上重し、一人荷担す、松源の禅。124

 自らほめる
 華叟の子であり孫であるボクは、禅のことを知らないから、狂雲(ボク)の目のまえでは、誰が禅の話をしてもダメだ。/華叟和尚が亡くなってから三十年、ボクはただ一人肩をはって、虚堂の禅の象徴たる、重い松源の伝法衣をつけている。

 華叟は一休の師、虚堂・松源は唐宋の純粋禅の祖たち。純粋禅とは、清貧にして枯淡な禅道の意。この詩は、加藤氏が、一休が格別の信念をもっていた証として、引用したものです。華叟の後を継いで大徳寺に入ったのは、兄弟子の養叟であって一休ではない。しかし、臨済宗の正統な後継者は自分だと、自賛しているのです。そして養叟に対しては、厳しい批判の眼を向けます。

 養叟の大用庵に題す 
 叢林零落して、殿堂疎なり、臨済の宗門、破滅の初め。
 大用は栴檀、仏寺閣、崢嶸たり、林下道人の居。173

 養叟の大用庵(の壁)に書き付ける
 禅の道場は、何処もみな落ちぶれて、仏殿も法堂もすきまだらけ、臨済宗の門戸は、すでに壊れかけている。/大用庵だけは、栴檀がまえの大伽藍で、鼻のたかい(大徳寺系)林下の僧が、ひしめきあう場所である。

 養叟は朝廷・公家との親密な関係を築き、大徳寺を繁栄させますが、一休はこうした養叟を、手厳しく批判します。

 (略)
 中に就て、腐爛す、養叟の輩、病脉ミャク並び損ず、今日の禅。251

 とりわけ、手のつけようがないのが、養叟一派であって、病気も脈も、完全にいかれているのが、今日の禅宗である。

  傀儡
 一棚頭上に、全身を現ず、或いは王侯と化し、或いは庶民。
 目前の真の、木橛モッケツなるを忘却して、痴人、喚んで本来人と作す。70 

 あやつり人形
 ステージいっぱい、身をのりだして、あるときは王侯貴族、あるときは庶民の姿をみせる。
 目の前にいる顔が、木の切れ端であることを忘れて、愚かな人々は、本物の人だと言いあう。 

 加藤氏は、一休が臨済宗の唯一の正統な後継者であるという自信のもとに、王侯も庶民もすべて「傀儡」と呼ぶことができた、としています。禅宗寺院、とりわけ養叟へのののしりに近い批判と、ほとんど自惚れともいえる自己評価が、繰り返されます。
 『狂雲集』の第一と第二のカテゴリーの詩は、以上の通りです。

   

« 茨木のり子展~わたしが一番きれいだつたとき~ | トップページ | 加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』-下- »

コメント

里山のフクロウ様

「加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』上下」、たいへん面白く読ませていただきました。
一ヶ所、どうしても気になる箇所がありました。「二.禅宗寺院批判」にあります一休宗純の自賛の詩の口語訳のところです。

自賛
 華叟の子孫、禅を知らず
 狂雲面前、誰か禅を説かん
 三十年来、肩上重し
 一人荷担す、松源の禅
自らほめる
華叟の子であり孫であるボクは、禅のことを知らないから、狂雲(ボク)の目のまえでは、誰が禅の話をしてもダメだ。/華叟和尚が亡くなってから三十年、ボクはただ一人肩をはって、虚堂の禅の象徴たる、重い松源の伝法衣をつけている。

※僭越ながら一休の自賛の詩について私の訳解と私見を記します。

自ら賛える
華叟の子孫(大徳寺を継いだ兄弟子たち)は、誰一人禅のことなど解っていない
狂雲(吾輩)の面前で、一体誰が禅の神髄を語れるのか
華叟和尚が亡くなって三十年、吾輩の肩は重い
だが、虚堂・松源ら唐宋の純粋禅の法灯を背負って、その自負と信念のもと、吾輩は頑張っている!

《以下、私見。一休の自賛の詩(七言絶句)の第一聯「華叟子孫不知禅」は、私の訳解のとおりでないと意味をなしません。下引のフクロウさんの解説に語られているところに照らしても、冒頭にある「華叟子孫」はボク(一休)ではなく「大徳寺を継いだ兄弟子たち」のことであり、「禅のことを知らない」のも養叟ら兄弟子たちであって一休ではないからです。原詩の「不知禅」を一休の謙遜と読むのも明らかに無理な読み違いです。》

 華叟は一休の師、虚堂・松源は唐宋の純粋禅の祖たち。純粋禅とは、清貧にして枯淡な禅道の意。この詩は、加藤氏が、一休が格別の信念をもっていた証として、引用したものです。華叟の後を継いで大徳寺に入ったのは、兄弟子の養叟であって一休ではない。しかし、臨済宗の正統な後継者は自分だと、自賛しているのです。そして養叟に対しては、厳しい批判の眼を向けます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』-上-:

« 茨木のり子展~わたしが一番きれいだつたとき~ | トップページ | 加藤周一と読む一休宗純著『狂雲集』-下- »