初秋の関西へ-中-
義兄の運転するスズキは、向日市の「竹林の径」を背に、京田辺市に向かいました。酬恩庵一休寺を訪ねるためです。先に読んだ柳田聖山訳『狂雲集』年譜には、「1456年・・・薪村の妙勝寺(現・京田辺市)を再興し、酬恩庵(一休庵)を営む」とあります。一休宗純63歳の時です。(スギゴケのうえにミヤギノハギの今年最後の花が咲いていました。)
しかし一休宗純が、ここ酬恩庵に常住したのは、11年後の1467年、74歳の時からです。京都の応仁の乱の戦火を避けて、この地に来たのです。しかも、さらに戦火が薪村におよんで、奈良、和泉、住吉方面へと避難しつづけます。この避難行の途中、森女に出会いました。77歳になっての恋愛でした。「盲女森侍者、情愛甚だ厚し。将マサに食を絶って命をおとさんとする。」と一休が漢詩に詠んだのは、この頃でしょうか。方丈庭園背後の小さな茶室を虎丘庵と称します。一休と森女は、ここで晩年を過ごしたということです。
鼓を打ち艶歌を歌って生活の糧としていた盲人森女と、武家に擁護された大寺院や既成勢力と闘いつづけてきた一休宗純の二人が、一休晩年の10年余を、この庵で静かに暮らしたのです。「静か」といっても、一休の漢詩を読むと、森女との恋愛は、そうとばかりもいえない激しさです。方丈中央に安置された一休禅師木造(重文)。弟子の墨済に命じて造らせた等身像で、頭髪と鬚は一休その人の実物を植え付けたという。一休宗純、1481年88歳で当地にて入寂。
宝物殿には、一休禅師の肖像画(頂相チンゾウ)、狂雲集、一休制作による髑髏面ドクロ、禅の公案「南泉斬猫」の図などがあり、先の読書のいい復習となりました。境内には、墓地が2箇所ありました。そのひとつは、一休宗純のもの。菊花紋の透かし彫りの門扉の内側には、「御廟所」があります。一休は後小松天皇の落胤(庶子)といわれていますが、この学説にもとづきこの御廟所は、宮内庁の管轄となっています。もうひとつの墓地には、同時代の能楽師や茶人たちの墓が、並んでいました。華やかな室町文化の担い手たちが、一休を慕って集まってきていた様子がうかがえて、大変面白い。
今回の帰郷の二日目は、姉夫婦とともに、平城遷都1300年祭の平城宮跡を訪ねました。この日も好天に恵まれ、先週までの猛暑と比べると、よほど涼しくはありましたが、朱雀門と大極殿のほかは、仮設の土産物屋を除けば何もなく、ただただ広い草原の遺跡を、汗掻きながら歩きました。途中、高齢者、身障者専用の電気バスに乗せていただき、少し樂をしました。
朱雀門から大極殿へ向かう途中、近鉄奈良線の踏切がありました。平城宮跡のなかを、東西に、鉄道が貫通しているのです。この鉄道を除けば、遺跡内には何もありません。おそらく水田として長年、使用され続けてきたのだろうと推定します。偶然ながらも奇跡的な遺跡保存に、安堵の気持ちとともに先祖たちの不作為に、感謝の気持ちが湧き出てきます。平安京の復元が、夢のまた夢なのと比べると、ここ平城宮遺跡の価値の大きさが、わかります。
草原のなかに建つ大極殿は、堂々としてしかも華やか、平城京建都に成功した、時の支配者たちの自信と誇りの高さを、感じさせます。あるいは、この威容を誇ることで、朝廷権力の力を民衆に誇示したのかもしれません。私の住む上州の地には、遷都翌年の711年に建てられた多胡碑という石碑があり、既に朝廷の支配が、上州にも及んでいたことを、教えてくれます。そして外には、遣唐使を派遣し、世界の最先進国である唐の国から、政治、仏教、文化、技術等々の文明を日本に持ち帰ってきたのです。遠く唐の都・長安へと旅立ち、再び日本へと帰ることのなかった阿倍仲麻呂は、この大極殿において天皇から遣唐使派遣の命を受け、朱雀門で家族や官僚仲間から見送られて旅立って行ったのだろう、と想像をめぐらせました。1300年前の秋の空も、今日のそれと、ほとんど変わらなかっただろうな。
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