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2010年9月 2日 (木)

茨木のり子展~わたしが一番きれいだつたとき~

P1120522_1  昨日、高崎市郊外にある県立土屋文明記念文学館に行きました。夏草が茫々と生い茂った広い前庭を通って、文学館というイメージとはすこし異質な、大きく立派な建物へ入って行きました。会場入口には、詩人の大きな肖像写真が、架かっています。2006年に急逝された、詩人茨木のり子の企画展。きりっとした眼差しは、シャープな印象を受けますが、その作品は、優しい。

 10年ほど前、詩集『倚りかからず』が話題となり、初めてこの詩人の作品に接しました。日常生活を見つめ歴史を凝視するなかで、平易な言葉で表現されたこの人の詩に、強くひきつけられたことを思いだします。

 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合なことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ (「倚りかからず」より) 

 会場には、この詩にうたわれたスウェーデン製の椅子が、長く使いこなされてくたびれたまま、展示されていました。作者晩年の作品は、毅然としていて、たのもしい。
 代表的な作品がいくつか、パネルに大書されて壁に掲げられており、文字の大きさに誘われるように、ゆっくりと読んでいきました。同人誌や詩集の初版本が、ガラスケースの中に展示されていましたが、こちらのほうは、文字が小さすぎてほとんど読めません。
 『りゅうりぇんれんの物語』という、ちょっと風変わりな題の詩がありました。劉連仁。1944年9月、日本軍によって中国から強制連行され、北海道の炭鉱へ送られた。45年7月収容所から脱走、58年2月に札幌市郊外で発見されるまで、逃亡生活を送った。このように説明されていました。茨木のり子は、新聞や雑誌の記事を切り抜き、中国人記者によって書かれた記録の書にもとづき、この詩『りゅうりぇんれんの物語』を書きました。私は、劉連仁が発見された当時の新聞報道を、かすかに記憶していますが、この詩のことは、初めて知りました。

 劉連仁 中国の人
 くやみごとがあって
 知りあいの家に赴くところを
 日本軍に攫われた
 山東省の草泊という村で
 昭和十九年九月 或る朝のこと (『りゅうりぇんれんの物語』の冒頭)

 農民劉連仁の拉致、強制連行、炭鉱での過酷な労働、脱走と逃亡、仲間の死と離別、山野での野宿生活、そして13年後の発見と帰郷、妻との再会までを、19ページにわたって書き綴られた叙事詩。茨木のり子は、見事なまでに、ひとりの中国人の拉致・強制連行の事実を、詩の形で私たち日本人に向かって、書き残してくれました。おそらく日本では、簡単に忘れ去られたであろう歴史の事実が、確固とした詩の形で書き留められ、この詩を読んだ、そして将来、読むであろう人びとの心のなかに、しかと刻印を押されることだろうと思います。帰宅後、『りゅうりぇんれんの物語』全体を読もうとネット検索したところ、「明治コンサルタント㈱」のHPに、添付されていました。この会社の前身は、明治鉱業㈱。劉連仁が強制労働させられた炭鉱を経営していた会社です。同HPは、中国人強制連行の被害者には、「大変な苦労と犠牲を強いたことには心が痛む」ところであり、「戦後60年以上が過ぎ、当時の記憶も少しずつ風化して」いくため、劉連仁さんたちのことを「多くの人々に知って頂きたく」この詩を掲載した、と記し最後に、「二度とこの様な不幸な出来事が起こらないことを願うばかりです」と書いています。最後の、まるで天災地変によって起こったような書き方に強い抵抗を感じますが、しかし、日本企業がこの様な形であれ、自社の加害の歴史と向き合おうとしていることに対しては、小さな一歩と評価したい。この様な形で、叙事詩『りゅうりぇんれんの物語』が読み続けられるも、また好しとします。
 今回の展示会の表題に使われている「わたしが一番きれいだつたとき」は、作者の30歳過ぎた頃の作品。それより10年すこし前の、敗戦前後の作者自身をうたいます。戦争の不条理を、自らの青春のなかに見出します。

 わたしが一番きれいだったとき
 街はがらがら崩れていった
 とんでもないところから
 青空が見えたりした   (第一節)

 わたしが一番きれいだったとき
 まわりの人達が沢山死んだ
 工場で 海で 名もない島で
 わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった  (第二節)

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしの国は戦争で負けた
 そんな馬鹿なことってあるものか
 ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた  (第五節)

 わたしが一番きれいだったとき
 ラジオからはジャズが溢れた
 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
 わたしは異国の甘い音楽をむさぼつた  (第六節)

 夫の死後、50歳からはじめたという韓国語学習には、心打たれます。説明には、「言語の習得は、戦時下で否定された隣国の言葉や文化へのまなざしを広げ、言葉に対する恩返しの意味から韓国現代史を翻訳」したとあります。言葉の守護神であろうとする詩人の心意気に、ただただ敬服するばかりです。茨木のり子翻訳『韓国現代詩選』は、今回の展示会から与えられた、楽しみな宿題となりました。詩人が、韓国語学習の過程で出会ったという韓国人詩人、尹東柱ユンドンジュのことについて、書き記しておきたい。
 尹東柱(1917-1945)は42年、立教大学に留学、翌43年、同志社大学在学中に治安維持法違反で下鴨警察に逮捕されました。翌年3月に懲役2年の判決を受け、45年2月16日、福岡刑務所で獄死しました。説明には、「日本の帝国主義が韓国語を抹殺しようとする中で、最後までハングルでの詩作を続け、民族的良心を守り通した」と記されています。茨木のり子は、「そこで得体のしれない注射を連日打たれ、亡くなるまぎわ、母国語で何事かを大きく叫んで息絶えたという。その言葉が何であったか、日本の看守にはわからなかった。だが、「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました」という証言は残った。いわば日本検察の手によって殺されたようなものである。痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない。」とエッセー『尹東柱』に書いています。韓国詩人尹東柱、ユンドンジュのことも、今回の企画展で得た貴重な情報でした。 

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コメント

 茨木のり子さんの「倚りかからず」は実家で母の蔵書に見つけ、私にも何十年振りかで詩を読む感動を覚えた詩集でした。
 昨年介護の研修中に孤老死について考える宿題があり、茨木のり子さんが亡くなった時の、確か毎日新聞の追悼コラムを取り上げたことがありました。潔い孤老死だったようです。今年90歳で昨秋から急激に認知機能が衰え始めた歌詠みのはしくれだった母に聞いてももう何も覚えていません。
 高崎でこんな展覧会があるというのはうらやましい話です。

コメントありがとうございます。
茨木のり子さんの孤老死については、知りませんでした。
しかし「潔い孤老死」と聞くだけで、「ああ、そうだっただろうな」と、彼女の詩をいくらか読んだ者として、納得できます。
詩集「倚りかからず」を愛読なさっていたお母さんが、達者に過ごされますように、祈っています。

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