秋祭り、そして講演会『小栗上野介の虚像と実像』
昨年の秋、実質的に定年退職したのですが、この1年は週1回会社へ顔をだし、仕事の燃えさしがくすぶるような状態で過ごしてきました。そして先週、この週1回の通勤も解消し、完全な定年退職となりました。すべての時間が、自分のものとなる筈です。そのように過ごしたい。
日曜日の朝、山里の小さな神社では、五穀豊穣を感謝して獅子舞が、氏神様に奉納されました。春の天候不順と夏の記録的な猛暑で、この地の農作物は、必ずしも「五穀豊穣」とは云いがたいのですが、ともあれ収穫の秋のめでたい祭です。地元の獅子舞保存会のひとたちが、獅子三匹、天狗、大黒天に扮し、横笛の演奏にあわせて、軽快に舞っていました。親獅子のうしろでは子獅子たちが、見様見真似でかわいく舞っていました。
午後、かみつけの里博物館で開催された小栗上野介についての講演会に出掛けました。この博物館は、榛名山東南麓の国指定史跡、保渡田古墳群の一角に建てられた、高崎市立の考古博物館です。博物館の西隣りにある二子山古墳は、満開のコスモスにかこまれ、親子連れが散策を楽しんでいました。先月紹介した「茨木のり子展」のあった土屋文明記念文学館は、この博物館のすぐ北側にあります。
講演会は、「かみつけ塾」という毎月一回開かれている地元の歴史をテーマとした講座です。今回は、『小栗上野介の虚像と実像』と題して、市川光一さんが話されました。市川さんは、小栗終焉の地である倉渕村(現・高崎市)在住の小栗研究者で、小栗上野介の功績を後世に正しく伝えようと頑張っています。70席ほど用意された会場は満員で、当地における小栗上野介の人気ぶりを、うかがわせます。
小栗上野介は、幕末期の優れた官僚で、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカに派遣された一員であり、横須賀造船所を建造した開明派でした。しかし、幕府内にあって主戦論を唱えて敗れ、上州権田村(高崎市倉渕町)の領地に引退したところを、謀反の企てがあるとして官軍によって捕らえられ、斬首されました。
講師の市川さんは、小栗上野介を大河ドラマの主人公に起用するようNHKに陳情した時のことを話され、小栗には色気がない、女性に人気がない(つまり視聴率を稼げそうもない)、ということでダメだったというエピソードを紹介されました。また、高校の歴史教科書では、小栗について長いこと取りあげられなかったのが、最近やっと記述されるようになった、と指摘されました。小栗の名誉回復は未だ、途上にあるのです。1932年の顕彰碑建設時のエピソードは、大変興味深い。小栗が斬首された地に、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれた顕彰碑が、地元有志によって建てられました。このとき、「罪なくして」という文言が、問題となりました。天皇をいただく官軍が罪のない人間を斬首するはずがない、という理屈です。市川さんは、勢いを得た皇国史観にもとづく非難だった、と断じます。しかし、市川さんの祖父たちの努力により、齊藤実首相の命によって、この文言が守られたということです。
赤城の埋蔵金騒動も面白い。講演資料の新聞切抜きから引用します。「幕府の将来も長くないと悟った、時の勘定奉行小栗上野介が、列強との戦いに備えた軍資金として、徳川家の裏金にあたる「御納戸金」の埋蔵を計画、赤城山麓に埋蔵したとつたえられる」(群馬読売92/10/10)。金額は、金の延べ棒など360万両、現在時価で200兆円とか。市川さんは、この埋蔵金騒動の原因は勝海舟にあった、と指摘されます。つまり、西軍が江戸城に入った時、金蔵が空であったのを問い詰められた海舟は、「金のことは小栗に聞いてくれ」と突っぱねました。これが一因となって、小栗が幕府の埋蔵金を隠した、という伝説が生まれました。幕府の財産整理人であった勝海舟らが、責任を小栗に転嫁したというわけです。
同じ幕末期の重臣であった勝海舟と小栗上野介の運命は、その後、際立った対照ぶりをみせます。前者が明治維新を生き延びて新政府から伯爵位を受任し、後世の人びとからも、多くのファンを得ているのに対して、後者が謀反の罪で斬首され、死後、埋蔵金隠匿という伝説をも付せられ、長年にわたって不名誉な評価を負い続けてきました。市川さんは、小栗と勝とを比較しながら、まさに両者のその後の歴史的評価において、虚像と実像が入り混じって今日に伝えられてきていることを指摘して、講座は終りました。
小栗上野介の上州での生活は、引退から斬首までのたったの65日に過ぎません。しかし権田の人びとは「小栗様」と慕いつづけ、その名誉回復のために、今なお努力し続けています。いまや、小栗上野介忠順(ただまさ)は、上州群馬の生んだ歴史的偉人として認識されつつある、といっていいかもしれません。
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