井上ひさし著『一週間』-シベリア抑留の深奥に迫る-
井上ひさしの最後の長編小説『一週間』を読み終えた日の翌日、偶然に、NHKの『16歳のシベリア抑留~“偽りの連行”を追う』(目撃日本列島10/2放映)という番組をみました。60万人ともいわれるシベリア抑留者のなかに、旧制中学生であった16歳の少年たちが26人もいたこと、彼らは日本人元将校の「内地へ」という偽りの言葉によって連行されたこと、そしてこの事実は戦後65年間、研究者たちにも知られておらず、この春、当の「少年」の一人のNHKへの手記の提供で初めて明らかになったこと、を知りました。
少年たちは何故、シベリアへ連行されたのか。日本軍の降伏後、極東赤軍の命令により、関東軍軍人・軍属のシベリアへの移送が決定されました。しかし、少年たちが動員されていた陸軍燃料廠では、軍人・軍属の脱走が相次ぎ、使役員数の数合わせのために、少年たちを「18歳」と偽らせ、旧日本軍将校がみずから引率して、シベリアへと移送したのでした。少年たちは軍人たちに混じって、極寒のシベリアで森林伐採作業に従事させられ、凍傷と飢餓に苦しみ、中には亡くなった者もいました。当時の少年のひとりがインタビューに答え、「だまされたこと、過去のことは、我慢せよといわれれば、我慢できる。しかし、亡くなった友に対しては、我慢できない」と涙を流し、絶句します。一方、少年たちを連行した元将校は、テレビカメラの前で、次のように証言しました。「18歳と偽らせ軍人扱いしたのは、少年たちを救うためだった。ポツダム宣言は、軍人の帰国を約束していたからだ。しかし、ソ連軍が宣言を守らなかったため、シベリヤへ送られた。自分は間違ったとは思わない」。取材した記者は、「少年たちの無念の行き場を見い出せなかった」と語ります。はたして少年たちは、ソ連邦の責任によってのみ、シベリアへ抑留されたのでしょうか。
井上ひさしは小説『一週間』で、日本人のシベリア抑留の深奥に秘められた真実に迫ります。舞台は、1946年(昭和21年)4月上旬、外気はいまだ零下20度というハバロフスクの捕虜収容所。ここに満州で極東赤軍の捕虜となった小松修吉が、移送されてきます。物語は、小松の捕虜収容所での一週間の出来事を、曜日を追いながら進みます。ただ、小松が回想する共産党員としての地下活動の場面や、小松がインタビーした脱走兵・入江一郎元軍医の逃走場面は、捕虜収容所の一週間という時空を越えて、日本と中国とソ連邦の各地に拡がり、半世紀の歴史に及ぶテーマが、描き出されます。そこには、小松がコミンテルンからの活動資金を受け取りに行った上海で魯迅に会った話や、入江が秘かにレーニンの若き日の手紙を手に入れ、その手紙にはレーニンの裏切りと革命の堕落を明らかにする証拠が記載されていたという、史実とも虚構ともつかないエピソードが繰り広げられます。井上小説らしい奇想天外な展開が、読者をひきつけ読書にはずみを付けてくれます。しかし井上ひさしが、この小説で読者に投げかけたメッセージは、「シベリア抑留の真実を見よ」ということに他なりません。史実は用意周到に研究されたうえ記述され、虚構は奇想天外に構想されながら史実と交錯し、歴史書とは違った、簡明で鋭利な歴史証言の書となっています。
シベリア抑留者数約60万人、うち抑留中の死亡者数約6万人(人数はともに諸説あり)といわれています。小説『一週間』は、何故、このように多数の人びとがシベリアへ移送・抑留されたのか、また何故、このように多くの人びとが命を落としたのか、を問います。
大橋元二等兵撲殺事件に手掛かりを求めます。熱烈なキリスト者で哲学者であった大橋吾郎は、靖国神社参拝を拒否したために満州の軍隊に連れてこられました。そして降伏、シベリア抑留。大橋は収容所内で、元将校・下士官が作業免除の特権を得たうえ、兵隊たちの食糧をピンハネし、こき使い、びんたを食わせていることに対して直接、彼らに抗議します。これに激怒した元将校たちは、大橋を徹底的に痛めつけ、ついに撲殺してしまいました。
この事件の原因について、赤軍将校は、「大日本帝国の軍隊制度の中枢部に階級的身分差別思想と非人間的な隷属関係が織り込まれている」ためだと分析します。これに対して、小松修吉は、「事件の真犯人は、ソ連邦の狡賢さである」と反論します。つまり、ポツダム宣言において、日本国軍隊の武装解除・解体があるにもかかわらず、ソ連邦は労働能率をあげるために、捕虜収容所で旧日本軍の階級制度をそのまま温存させている。乏しい食糧と極寒の地での過酷な重労働、そのうえ旧軍将校たちの搾取と暴力が重なり、二割の兵隊たちが死亡している、一方、将校・下士官で死亡者は、一人も出ていない、と。赤軍将校の再反論。それは、旧関東軍参謀たちの意見を受け入れたためである。「日本兵は上官の命令で動くのが一番・・・だから旧軍組織は残すべきだ、その方が二倍も三倍も労働の能率が上がると力説なさるのです」。つまり、「捕虜収容所に旧軍組織を温存するという方針は、ソ連邦当局と将校収容所の参謀たちの合作だった」という結論にいたります。このようにして、抑留兵士たちの大量死の背景が徐々に、明らかにされました。
では何故、60万人もの軍人・軍属が、シベリアへ抑留されたのか。
小松は、大橋元二等兵の手帳に書かれた国際法に、ソ連邦批判の根拠を求めます。
「ハーグ陸戦条規第二十条 平和克復ノ後ハ、成ルヘク速ニ俘虜ヲ其ノ本国ニ帰還セシムへシ。」(1910年効力発生)
「ポツダム宣言第九項 日本国軍隊は・・・各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得らしめられるべし。」
これらの国際法規に則り日本国政府は、満州在留の軍人の日本への帰国を、ソ連邦政府に要求し、ソ連邦政府は当然のこととして、元日本軍軍人を日本へ帰還させなければなりません。これがハーグ陸戦条規第二十条であり、それを反映したポツダム宣言第九項で定められたことです。しかし歴史の事実は、60万人にものぼる軍人・軍属のシベリアへの移送でした。何故なのか?
小松は、脱走兵の入江元軍医から、衝撃的な事実をききます。
まず、ソ連邦側の事情。①帝政ロシア・ソ連邦は歴史的に、大規模工事で労働力が必要になるとき、収容所の囚人・捕虜を利用してきた。②第二次世界大戦で二千万人以上の死者を出したソ連邦では、極端な労働力不足となり、戦後復興のための労働力を敗戦国捕虜に求めた。③戦争終結間際に満州を攻めたのも、労働力確保のためである。
一方、日本側の事情。朝枝繁春大本営参謀による1945年8月下旬の満州視察報告『関東軍方面停戦状況に関する実視報告』について知り、小松は衝撃を受けます。『内地における食糧事情および思想経済事情を考えるならば、既定方針どおり、大陸方面においては、ソ連の庇護のもとに、満州朝鮮に土着させ、生活を営むようソ連側に依頼するも可』。
旧関東軍軍人・軍属のシベリア抑留は、ソ連側の労働力確保の要求と日本側の「棄民」政策によって、成り立ったのでした。「ソ連もひどいが祖国日本もひどい。もう国家なんて信用すまい」と作者は、入江元軍医につぶやかせています。
小説『一週間』が語っている「シベリア抑留の真実」は、このように要約できると思います。冒頭に紹介した旧制中学で学ぶ少年たちのシベリア抑留も、国際法に違反したソ連の労働力確保政策と日本国の棄民政策の連携によって、現実化したことがわかります。先に書いたように、井上ひさしの小説は、フィクションとノンフィクションが交錯して描かれます。だから、彼の小説を読んだ時は、書かれた事件や文書が史実なのかどうかを、ときには、確かめます。今回は、「朝枝繁春参謀の関東軍方面停戦状況に関する実視報告」をネットで検索しました。100件余の記事が出てきました。そのなかの「シベリア抑留裁判」というサイトを開いてみました。1999年4月、シベリア抑留者5人(75~82歳)が、シベリア抑留の法的、政治的根拠を求めて、国を訴えたもの。大阪地裁、大阪高裁、最高裁での裁判の様子が、詳細に報告されています。04年1月27日、原告敗訴が確定します。この裁判に先立ち、未払い賃金の支払いを求めた別の訴えも、1997年に最高裁で敗訴が確定しています。司法での事実解明と補償の道は、閉ざされました。
今年6月16日、「戦後強制抑留者特別措置法」が衆院で可決・成立しました。シベリア抑留者への補償が、戦後65年たってやっと実現したのです。政権交代によるささやかな一歩です。上記の裁判で闘ってきた人たちの思いが、やっと国家に届いたのです。しかし、韓国人抑留者が除外されるなど、深刻な問題を残しています。
『一週間』を読んでいる間、何で今、井上ひさしさんがシベリア抑留をテーマに小説を書いたのだろうか、と疑問に思っていました。しかし、シべりア抑留問題は、歴史上の問題であるだけではなく、その真実と被害者への補償が、政治的にも社会的にも学問上でも、全く未解決のままであり、従ってシベリア抑留問題は、現在の問題でありつづけているからだと、この小説の読後にやっと、理解することができました。
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井上ひさしの小説の単なる読後評に留まらない「シベリア抑留問題」についての、エネルギッシュな歴史的考察、問題提起に敬意を表します。戦後60数年経過し、人間の根源的なエゴの結末である戦争の原因とその責任を総括する事なしに、証言者も故人となり、歴史事実はどんどん風化しているのは残念な事です。国家とは何か、国民を守るとはどういうことか、昨今の尖閣問題とあわせて、対ソ連問題は今、考えるのにいい機会だと思います。当時のソ連が国際法を無視、国境を越えて周辺地域に攻め入り、抑留者には強制労働、共産主義への洗脳を強要し、思想転換をしなければ長期間帰還させなかったことで、多数を死に至らしめたのは非人道的な、戦争犯罪に値する行為であり、相手が大国だからといって見逃されることではないと長年思ってきました。いまだに北方領土を返還しない事とあわせて、日本はその事実を国際舞台でもっとアピール,抗議するべきと考えます。これまでどの政治家も国内の権力闘争、保身に奔走し、外交問題は先送りですが、ソ連に対し謝罪を求めるぐらいの気概が欲しいものです。いつから、何が原因で日本は、外に向かって何もいえないようになってしまったのか、顔色を伺うばかりの、卑屈な国という印象を与え、中国にも野心を抱かせる事になるのだろうと思います。軍国主義の復活は困りますが、時には力も必要、経済先進国であっても、政治は三流国、元気な国なるためには、いうべき事ははっきりいう、中国を見ているとつくつく感じるこのごろです。若い世代に無気力感が漂うのは、今の政治家が御粗末なだからかも。戦争は悪ですが、特攻に出撃する直前の青年の笑顔、表情の写真、親思いの泣ける遺書を見ると、親子で殺人事件が起こる今の日本はどうなってしまってのか寂しい限りです。(戦争で、国にために命をささげ、シベリアなど異国の地に散った人たちがさぞかし墓場で嘆いているだろうなあ)
投稿: 二日酔いの人 | 2010年10月 5日 (火) 22時18分
コメントありがとうございます。ご指摘の通り、日本国政府の対外的な主張の柔弱さには、時に辟易させられます。シベリア抑留におけるソ連の責任は、極めて重大だと云わなければなりません。『一週間』を読む前の私は、ほぼそのように考えていました。しかし読後の今、読者の私たちは、井上ひさしからのメッセージによって、シベリア抑留の責任が、ソ連とともに、日本国にもあったことを知りました。天皇と重臣たちと武装解除された日本軍幹部たちは、シベリアの地にあった日本人と植民地の人々を、国家の意志によって見棄てたのです。「棄民」とは、忌まわしい言葉です。しかも戦後65年間、日本国政府はシベリア抑留の史実を、無視し続けました。私は、このことこそが今、日本国政府に問いかけ、それを許容してきた私たちが自省すべきことだと考えます。
投稿: minoma | 2010年10月 6日 (水) 06時50分
井上ひさし氏のシベリア抑留をソ連側の事情だけでなく、日本の棄民政策にあったとするご指摘には賛同できません。確かに、終戦に至るまで、本土決戦を覚悟した大本営、および軍上層部の常軌を逸する工作があったのでしょうが、シベリアには捕虜同然で戦後10年以上も拘束されています。この間に、日本は、軍が解体し、「全国民の生活の安全を保証する新憲法」が制定され、民主主義平和国家として、めざましい戦後の復興が成し遂げられました。終戦直前に棄民という非人道的な考えが一部にあったとしても、その事が、抑留問題を長年解決できなかったということにはならないと思います。
松本清張氏が戦後の日本の闇について一連の小説で書いていますが、東西冷戦の緊張が高まっていた中での、占領国アメリカの不気味な陰を感じる時代の出来事が「シベリア抑留問題」という歴史でもあります。しかしながら問題は、日本が経済大国として宇宙にロケットを飛ばし、ノーベル賞を何人も輩出する時代になった今もってもなお、対中国問題、拉致問題、領土問題等に対して、外に向けて主張する事を遠慮している気がしてなりません。(北方4島は無人島ではありません。何故日本人が住む事、旅行することが許されないのか)自らも謙虚に反省することも必要ですが、ベクトルは常に内向きではなく、一方で、いうべきは言う、日本人というDNAに誇りをもてるようになりたいものです。
投稿: | 2010年10月13日 (水) 14時36分