古代の上野國
先週末、姉夫婦と兄がやってきたので、高崎市の古墳遺跡等を廻りました。このメンバーで昨夏、中国考古学の旅をしたのですが、この秋は、上州の考古学遺跡を訪ねることにしました。普段は古代史とは縁遠い者たちですが、時々、にわかファンとなって、遺跡や古寺を巡るのです。
最初に訪ねたのは、高崎市吉井町にある多胡碑とその記念館。多胡碑は、711年(和銅4年)に多胡郡が設置されたことを記念するために、8世紀後半に建てられた石碑で、多賀城碑や那須国造碑とともに日本三大古碑のひとつに数えられています。多胡碑は現在、小さなお堂(上の写真)のなかにあり、ガラス越しにその文面を見ることができます。楷書体の漢字は力強く明確で、欠損することもなく、ほぼ全文読むことができます(右の写真は記念館にあったレプリカ)。そこには、上野國の片岡郡・緑野郡・甘良郡にある三百戸で新たに多胡郡を設置する、という趣旨の碑文が読み取れます。では、何故、多胡郡が設置されたのか。記念館にあった説明文には、いくつかの説のひとつとして、渡来人たちが、もとから当地にいた物部氏族の圧迫にあい、自分たちの領地の補償を得るために、朝廷に新郡設置を求めた結果だ、という説を紹介しています。平城京遷都の翌年には既に、朝廷の支配が、上野國(群馬県)に及んでいたことを再確認するとともに、朝鮮半島からの渡来人の子孫たちが、在来の人間たちと拮抗したり共存したりしながら、日本人を形成しつつあったことを、あらためて学ぶことができます。
記念館の中には、背丈の三倍ほどもある好太王碑の拓本が、展示されていました。高校の歴史教科書で写真を見た記憶がありますが、その大きさには驚きました。この碑文は、隷書体で書かれていますが、その中の一字「罡」(四の下に止)が、多胡碑文の「片罡郡」と同一であると説明されていました。中国古代の文字や漢字書体の歴史を学ぶ場ともなっています。昨夏、河南省の考古学博物館で見た中国殷(商)代の青銅器の酒気・爵や亀甲に刻まれた文字なども展示されていました。
1300年前の地名が、現在なお生き続けていることに、深い感銘を受けました。
次に向かったのが、高崎市群馬町にある保渡田古墳群とかみつけの里博物館。この古墳群は、榛名山東南麓にある3基の前方後円墳(二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳)から成り、近くに「三ツ寺Ⅰ遺跡」と称される巨大な王の屋敷跡も発掘されており、この地が、「東日本でも有数の勢力を誇った王の本拠地」(かみつけの里博物館リーフレットより)であったことがわかります。5世紀後半から6世紀初めのころの遺跡群です。この古墳群の中のひとつ八幡塚古墳(復元遺跡)に行きました。まず目に入ったのが、「前方」部手前の一角に並べられた人物や動物の埴輪群像です。武人、琴を弾く男、力士、馬曳きなどの男子と女子、そして馬、イノシシ、鶏など、それはそれは賑やかなことです。長年の考古学研究に基づいて復元され、並べられたものだということです。登場する人物と動物には、それぞれ意味があり、またその並べ方にも、きっと隠された意味があるのだと想像します。墳丘の周りには、赤橙色の円筒埴輪が取り囲んでいました。そして土を盛り上げた墳丘は3段に築かれ、その斜面には葺石がぎっしりと積まれています。墳丘の長さ、96メートル。その上に登ってみて、大きさが手に取るように分かりました。
前方後円墳の「前方」から「後円」へと進んでいくと、「後円」の地下に潜ることができました。狭い階段を降りていくと、薄暗く小さな部屋があり、そこには大きな舟形の石棺が横たえてありました。この石棺に王を入れ、上部を土と礫を盛って埋葬したものです。この石棺に埋葬されていた遺品類は、発掘時にはほとんど盗掘されてなくなっていたとのことです。
古墳は、外形からだけでは中々、そのイメージをつかみにくいのですが、この八幡塚古墳は当時の面影を、可能なかぎり復元しており、前方後円墳の形態的な理解を、少しは深めることができました。そして何よりも、この前方後円墳の形の美しさに、強く魅せられました。
こうして古墳や遺跡を巡り歩き、最早頭の中は、古代日本の「にわか知識」であふれ返り、頭も脚も疲労困憊の態で、帰途に着きました。
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