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2010年12月 4日 (土)

都心の前方後円墳を訪ねる

P1130138_1   一昨日の夕方、東京へ行く用があったので、昼間、都心の古墳を訪ねました。先月初め、高崎にある保渡田八幡塚古墳をみたとき、その形の美しさと大きさに驚き、その後、広瀬和雄著『前方後円墳の世界』(岩波新書10/8刊)を読んで、ますます古墳に魅せられました。広瀬氏の「各地の古墳公園を散策し、歴史への想像力をおおいに飛翔させてほしい」とのメッセージにこたえ、この日の東京古墳巡りとなりました。(写真:宝莱山古墳の案内板にあった平面図)

P1130082_1_2  東急東横線の多摩川駅で下車し、田園調布の住宅街の坂道をのぼっていくと、雑木林に囲まれた静かな公園がありました。右手に管理事務所があり古墳展示室が併設されています。まずここで、多摩川台公園の古墳群について、予備知識を得ることにしました。
 多摩川下流域の大田区田園調布、世田谷区尾山台・等々力・野毛といった地域は、武蔵野台地の南西の縁にあり、その先は多摩川へ降りていく崖となっています。この一帯の古墳をまとめて「荏原(台)古墳群」と呼ぶそうですが、今回はこの古墳群をひと巡りする予定です。展示室には、この古墳群から出土した土師器・埴輪・武具・馬具・装飾具などが展示され、部屋中央には、木棺に埋葬された首長の遺体(模型)が横たわっています。また、日本書紀の「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の乱」の解説は、当地と上毛野国(かみつけぬのくに・群馬県)との深い結びつき示唆しており、思わず前のめりになりました。窓口で200円で売っていた『古墳ハンドブック』(大田区刊)を買って、展示室をあとにしました。
P11301151_1_3  管理事務所の向かい側に、フェンスに囲まれ雑木の生い茂った小高い丘がありました。これが亀甲山(かめのこやま)古墳です。墳丘の長さ107m、後円部直径66m、高さ10mの大前方後円墳です。写真中央のくびれ部から向こうが後円部で、こちらが前方部にあたります。4世紀後半に築造されたと推定されています。国指定史跡に指定され、「学術調査及び管理上必要な時以外立ち入り禁止」の看板がたっていましたが、その学術調査は未だ、なされていないようです。公園には、散歩をする人や弁当を食べる人たちが、のんびり過ごしています。P1130122_1四阿(あずまや)の柱には、「宿泊禁止」の看板が立ち、その下で白黑まじりの野良猫が3匹、寝そべっていました。ここから多摩川を、はるか下方に眺望することができます。広瀬和雄氏は、この大きな古墳の真下に、川幅の広い多摩川が流れていることに注目し、「多摩川を利用した人びとの往来に、みずからの権力や権威を見せびらかすのが、前方後円墳のひとつの役割だった」と指摘しています。現場に立ってみると、なるほどと納得します。
 亀甲山古墳の北側には、小型の前方後円墳と円墳が7基連なっており、その先の多摩川台公園の北端に、宝莱山古墳(冒頭写真)がありました。後円部は住宅が建っており、現在は前方部だけが残っています。ここからは、中国製獣帯鏡(銅製円板の鏡の裏に獣紋を描いたもの)を模倣して作った仿製鏡(和製鏡)である四獣鏡が出土しています。先の展示室にそのレプリカがありました。こちらの前方後円墳は、亀甲山古墳よりさらに古く、3世紀後半築造と推定されています。この時期すでに、日本列島でも仿製鏡が作られていたこと知りますし、再び広瀬氏の「古墳時代でもごく初期に、畿内中枢部と共通した様式の前方後円墳が、東国にも造営されていた」という重要な指摘を、記憶しておきたい。
P1130155_1_2  多摩川台公園の古墳をみたあと、田園調布駅で東急に乗り、自由が丘を経由して等々力で下車、荏原(台)古墳群のもうひとつの野毛古墳群に向かいました。等々力駅を左に曲り環状八号線に出て右折、しばらく歩くと左前方にテニスコートや児童公園のある玉川野毛町公園が見えてきました。このなかに、野毛大塚古墳があるのです。築造当時の姿に復元されていることと、典型的な帆立貝式古墳だということで、今回是非、見たいと思っていました。写真は、案内プレートの模型です。P1130152_1後円部の墳丘は三段に築成され、斜面には葺石が敷き詰められています。各テラスには埴輪が並べられ、墳丘の周りは浅い濠が廻らされています。前方部は台形で、その左手に造り出しが付いています。実物写真は、前方部と造り出しの中間点辺りから撮っています。人の立っている側が前方部。この古墳は、斜面以外は敷地内に入ることができ、帆立貝式前方後円墳を存分に楽しむことができます。公園の近くには団地やアパートが建ち、母親たちが子供を遊ばせていました。
P1130193_1  墳丘の周りをめぐったあと、後円部を登ってみました。頂上には4つの埋葬施設が、石板で表現されていました。それぞれの石板には、多くの副葬品の武具や装飾具などが刻まれており、この古墳が相当力のある武人のものであったことを推定させます。特に、出土した甲冑は、古墳時代中期初に畿内で定式化したもので、大和政権との関係が指摘されると、『古墳ガイドブック』に紹介されています。また、石製勾玉などの出土品が、群馬県藤岡市・白石稲荷山古墳からの出土品と類似していることから、南武蔵と上毛野国との密接な友好関係も推定しています。4世末から5世紀初めの頃の前方後円墳です。
P1130247_1  野毛古墳をみたあと環状八号線をもとに戻り、等々力渓谷に降りて、7,8世紀に造られた横穴群のひとつを見ました。谷間の崖に横穴を掘ってつくられた墓で、有力な農民が埋葬されていると、案内プレートに書かれていました。等々力渓谷のモミジは美しく紅葉しており、都心にこんな静寂な渓谷があったのかと、少々驚きました。最後に、等々力不動尊の斜め向かいある御岳山古墳に行きました。多くの古墳同様に、「御岳山古墳」と書いた石碑がなければ、ただの雑木林としか見えません。ここでも甲冑が出土しており、5世紀中頃、この地を治めた首長の墓とされています。また、周囲に鈴をつけた特徴ある銅鏡の七鈴鏡が出土していますが、これは群馬県を製作地とするものと推定され、ここでも、南武蔵と上毛野国との密接な関係がみられて、興味が尽きません。
 20数年間、高崎と東京の間を通勤してきたのですが、この間一度たりとも、都心の古墳に(というよりも東京の歴史に)気持ちが向かうことはありませんでした。それが定年退職後に東京を離れてはじめて、東京のもうひとつの顔を、発見した感じがします。再び、こうした機会を作りたいと思います。

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