竹林整備と竹炭焼き
近くの放置竹林を整備し始めて、そろそろ1年近くになります。毎週日曜日の朝、のこぎり1本とペット茶をもって、竹林に出かけます。 農作業の忙しい夏から秋にかけては、非農家の私ひとり、あるいは家内と二人で作業することが多かったのですが、稲の刈り取りも終った11月からは、月1回の定例日には、数人の仲間がぼつぼつ、参加するようになりました。そして昨日、年明け早々に建造予定の炭焼き竈(かま)に使う竹を伐採するために、区内外から20名の人びとが、集まりました。
なかには、2月に開いた竹林整備研修会に参加された方たちもいますが、ほとんどが始めて。慣れない作業で怪我がないように、と事務局では心配していたのですが、杞憂でした。ほとんどが、近隣地区から来た農家の人たちで、竹林整備のベテラン揃い。眥(まなじり)を決して竹に立ち向かう私の隣では、70歳すぎの爺さんがひょいひょいと、竹を刈り倒し、玉切りし、枝払いをして、6m近い竹丸太を運び去りました。あっけにとられて、その後姿を追う始末でした。
年明け造ろうとしている炭焼き竈は、県助成を一部受けながら、今回集まったメンバーで建造し、運営していこうというもの。中々本格的な竈を造ろうとしています。しかし、やっと竹林整備が緒についたところ。竹炭焼きまで手が回るのか心配です。竹林整備の結果、伐採した竹の活用のために、竹炭焼きをやろう、というよりは、竹炭焼きのために、必要な竹を伐採しょう、という発想です。ちょっと変ですが、まあどっちにしろ、竹を伐採することになるのだと、気を取り直しています。
作業が終ったあと、高崎から来ていたTさんに誘われて、彼女たちのグループの炭焼き竈に案内してもらいました。このグループは、観音山丘陵北麓で、自然保護を重視した竹林整備や松林再生に取り組んでいる人たちです。真竹の伐採、炭焼き、竹炭の山林への散布、松林の再生という、息の長い大変貴重な活動をしています。Tさんは、「1時間だけ時間頂戴」といって、竹炭づくりを始めました。
Tさんたちの竹炭焼きの竈は、道路沿いの放置された竹林を、皆伐・整備してつくった畑の一隅にありました。1.5m×1.5mの正方形を10㎝の深さに掘り下げ、その一辺に、煙突を立てたものが、それでした。極めて簡便な、誰にでもすぐに出来そうな竈です。Tさんは、2本の木の枝を並行に竈に並べ、その上に燃えやすい枯れ草や小枝を敷いて、さらにその上に、まずは細い枯れ竹を重ね、続いて井桁状にやや太い枯れ竹を重ねました。そして点火。枯れ草は、みるみるうちに燃え上がり、すぐに枯れ竹に燃え移りました。火の様子を見ながら、さらに枯れ竹を重ねていきます。割れ目の入っていない竹は、竈の横にあった頭大の石に打ち下ろして割ってから、竈にくべます。Tさんの作業はあくまでも、プリミティブです。こうして、4段まで竹を重ねました。火力はますます強くなり、炎が高く舞いあがります。こうなるともう、竈へは熱くて近寄れません。しばらく炎が落ち着くのを待ちます。やがて、大きな炎が消えかかったとき、トタン板を被せました。絵や文字の残った古い看板の再利用です。廃材利用が徹底しています。次に トタン板の上から土を被せ、全体を覆いつくします。すると、煙突からは、水蒸気を含んだ白い煙が、盛んに出始めました。Tさんは作業の手を休め、煙突から噴出する煙を注視しています。白煙が紫煙に変わったときに、煙突を取り除いて、密閉にするのが要諦だといいます。炭焼きを始めた頃、全部灰にしてしまう失敗をしたと、笑いました。しばらくすると、白煙は徐々に少なくなり、やがてうすい紫煙へと変わっていきました。
これでいいでしょう、とTさんは自分に言い聞かせるようにつぶやくと、煙突を外し、竈を密閉状態にしました。すると、竈のあとは何もない、のっぺらの畑に戻りました。はい、これで終わり。腕時計をみると、2本の枯れ枝を竈に置いてから、50分経っていました。数日後に竹炭を掘り出し、弱った松林への撒布用に使うそうです。竹炭を撒いた松林は、数年すると見違えるように元気になりますよ、とTさんは明るく笑いました。
Tさんたちの竹の炭焼き活動には、大変感心しました。徹底的な廃物利用と簡易な作業は、身の丈にあった試みであるし、一方、竹炭散布によるの松林再生の実践と思想は、極めて今日的な課題への挑戦だと思いました。はたして、私たちのグループの炭焼きは、どのような展開になるのだろうかと、すこし楽しみになってきました。
« 不干斎ハビアン著『妙貞問答』と『破提宇子』 | トップページ | 加藤周一とともに仮名草子『きのふはけふの物語』を読む »
« 不干斎ハビアン著『妙貞問答』と『破提宇子』 | トップページ | 加藤周一とともに仮名草子『きのふはけふの物語』を読む »
コメント