吉澤誠一郎著『清朝と近代世界 19世紀』
新年最初の読書は、昨年夏から刊行され始めた岩波新書「シリーズ 中国近現代史 全6巻」の①『吉澤誠一郎著『清朝と近代世界 19世紀』でした。このシリーズは既に、①②③の3巻が刊行されており、今年前半には、全巻とも揃う筈です。
今日、時代は確実に、米国の一国支配から多極化へと進んでいます。その変動の中心に、中国があります。こうした歴史的画期のとき、中国200年の歴史をたどることは、時宜を得た企画で、読書人にとっては大変ありがたい。
シリーズ①のこの書は、18世紀末から日清戦争開戦(1894年)までの清朝の歴史を追っています。19世紀の中国といえば、西洋列強の覇権(アヘン戦争)に悶え苦しみ、民衆反乱(太平天国)に翻弄される国家像をイメージします。また、国家をささえる官僚たちは、旧弊に固執し、近代に目を背ける頑迷な保守主義者たちからなっていた、という印象すら持っています。しかし著者は、朝廷人や官僚たちを通して、近代世界のなかで存続をはかるために、妥協しながらも自己変革を遂げていく清朝の姿を、丁寧に追っていきます。
アヘン戦争や太平天国の混乱が収束した1860年代、清朝は近代世界に挑戦します。その先頭に立ったのが、時の皇帝の叔父にあたる恭親王奕訢(えききん)と官僚の曾国藩・李鴻章などでした。彼らは、外国語教育や科学技術の必要性を説き、西洋の近代兵器の導入を進めます。李鴻章は清朝の現状を、儒教と科挙という国家の基本にこそ病巣がある、という大胆な見方すらしていました。これに対して、儒教を重んじる官僚から、猛烈な反発が生まれます。「国を立てる道は礼儀を尊ぶことであって権謀を尊ぶことではありません。最も大切にすべきなのは人心であって技芸ではありません」(大学士倭仁)。改革派と守旧派の猛烈なせめぎあいがありました。
清朝にとっては、西洋列強の覇権とともに日本の台頭も、気になるところでした。1870年、日本は条約締結交渉のため、代表を派遣しました。この日本について、曾国藩は次のように述べています。「元の世祖〔クビライ〕のような強い者が10万の軍で日本を攻めたのに1隻の船も帰らず、明代の倭寇は東南地域を蹂躙して大きな被害を与えたのに、これを懲らしめた事例を聞きません。日本は前の時代のことをよく知っていて、もともと中国を恐れる心をもたず、かねてから我々を隣邦と称してもいるので、朝鮮・琉球・越南のような臣属の国とは異なるのです。日本は、対等の地位にあるとして、イギリス・フランス諸国の例にならおうとするのが真意でしょう」。そして李鴻章は、日本が西洋寄りにならずに、むしろ清朝を助ける存在となることを期待していた、と著者は指摘します。こうした史実は、その後の歴史が逆方向をたどるのですが、記憶されるべきことだと思います。
ここに、「朝鮮・琉球・越南のような臣属の国」とでてきます。これは、朝鮮・琉球・越南が清国に朝貢し、その見返りに冊封を受ける、という関係です。臣属といつても、従属関係は形式的で、各国の自主性は尊重されていました。その冊封体制のなかにあった琉球についての記述が、興味深い。1871年、琉球人が漂着した台湾で先住民族に殺害される、という事件がありました(1874年の台湾出兵の口実になった事件)。この事件をめぐる日清両国のやりとりが紹介されています。清国側は、殺されたのは琉球人で日本人ではない、琉球はわが藩属だ、と主張します。一方、日本側は、琉球は薩摩藩に属していて、琉球人は日本人だといえる、と指摘します。琉球王国は、清国の冊封体制のなかにありながら薩摩藩に従属させられていたのです。しかし、琉球士族たちは、「清朝への藩属こそが琉球王国の存続の鍵を握っている」と確信していました。しかし、1879年、琉球藩は廃止され沖縄県とされました(琉球処分)。沖縄の諸問題を考えるとき、こうした歴史を忘れることはできません。また、日本と中国と沖縄の関係を考えるときも、19世紀までの3国の関係を、今一度、思い起こすべきだと思います。今後更にグローバル化が進み、国境が陳腐化していくことが予想されるとき、冊封体制の再来はあり得ないとしても、そこにあった国家間の柔軟な関係性あるいは曖昧さについては、再評価できるかもしれません。
危機を克服し近代世界へ脱皮していこうとする清朝は、統治を支える重心を、東南沿海部に傾けていきました。「汽船の時代は、沿海部と長江流域の発展にとっては有利な環境を提供したが、そのような発展から取り残された地区は、辺疆や内陸に多く見られ」ました。ここから著者は、現代中国の沿海部と内陸部との経済格差の起原を、19世紀に求めています。
中国の近・現代史を初めて学ぼうとする者にとっては、専門性の程度と難易度、分量ともに、手頃な入門書になると思います。②巻以降の読書が、楽しみです。
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