渡辺京二著『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』
週明けから読みつづけてきた渡辺京二著『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社10/2刊)を今し方読み終え、深い感動に浸っています。日本の西洋との「セカンド・コンタクト」は、ペリーの来航よりも早く、18世紀半ば、北方から南進してきたロシアとの接触によって始まりました。この本は、この「セカンド・コンタクト」に登場するロシアとアイヌと日本の人びとの姿を、日露双方の史料を読み解きながら、生き生きと描きます。ドキュメンタリーにもかかわらず、まるで歴史小説のように、登場人物たちは、極めて魅力的に立ち回ります。昨年末、大佛次郎賞を受賞しました。
本書は何よりも、日本列島北方の歴史書です。焦点は、18世紀後半から19世はじめ、舞台となる蝦夷地とその周辺で、原住民であるアイヌと南進をはかるロシア人とそれに危機感を抱いた日本人が、接触し交錯しあった様相を描くことにあります。著者は、このセカンド・コンタクトに到るまでの前史を丁寧にたどり、歴史描写に奥行きと立体感をもたらしています。
まず、ロシアのシベリア征服史があります。16世紀末から始まったロシア東漸は、17世紀には本格化し、イルクーツク建設、カムチャツカ遠征を経て、1711年はじめて、千島列島に到ります。ロシアのシベリア征服最大の動機は、重要な輸出品である毛皮の確保でした。コサックを主力とする冒険家たちを尖兵に、モスクワから派遣された官吏や野心に満ちた商人が、ウラルを越えて陸続と進出していきました。彼らは、原住民を征服し、過酷な毛皮税を課しました。また、原住民から冨を掠奪し、妻子を誘拐して奴隷のように売買し、終日、ウォッカに飲んだくれるのでした。当然、原住民の反乱が、多発します。著者は、こうした狂乱状況を、「シベリアの謝肉祭」と呼びます。
ロシアの日本への関心は、極東シベリアからアラスカにまたがる広大なロシア植民地の食料を確保することでした。このため18世紀、ロシア人たちは幾度も、交易を求めて日本への進出(南進)をはかりました。しかし、日本北方の海域は、「世界地図に残る唯一の空白地帯」で、ロシア人たちの南進は、辛苦を重ねました。1739年、デンマーク出身の海軍将校、シュパンベルクが仙台領の沖合いに到着したときの模様が、日露双方の記録によって、詳しく記述されます。まず、鮮魚、米、葉煙草、野菜などを積んだ漁船がやってきて、交易が行われました。日本人は、羅紗の布地や衣服、青いガラス玉が気に入りました。「日本人の礼儀正しさと商品の廉価なのがロシア人たちの印象に残」りました。やがて役人が来訪し、会見します。「彼らは頭が地面につくまでお辞儀して、シュパンベルクを辟易させ」ます。ロシア人たちは又、「民家の清潔さとよく耕された田畑に感心し・・・庶民たちが異国人に何ら警戒心やわだかまりを抱かず、ひたすら野次馬的好奇心と精一杯の善意を表したこと」に感動しました。しかし日本側の記録には、日本人が歓迎したことや交易した事実は、残されていません。著者は、日本人当事者たちが、鎖国の国是をはばかったためである、と指摘しています。
ロシアの南進を正面から受け止めたのは、松前藩でした。秀吉や家康によって蝦夷地でのアイヌとの独占的な交易を任された松前藩は、他藩から「蝦夷大王」と軽侮されましたが、一方でこの名称は、松前藩が異国としてのアイヌモシリを従属・保護していることをも意味していました。では、「蝦夷大王」と呼ばれた松前藩とアイヌとは、どのような関係であったのでしょうか。松前藩主は、蝦夷地に住むアイヌを領民として支配せず、貢租を徴収したこともありません。ただ、交易の相手であったのです。しかし、この交易をめぐって争いが繰り返されました。1789年、クナシリ・メナシでのアイヌ暴動も、そのひとつでした。71人の日本人が殺害されたというこの事件は従来、「松前藩の支配に対するアイヌの民族的な抵抗運動」と位置づけられてきました。しかし著者は、最近の研究成果に基づき、争いの原因は、アイヌと日本人の間の異文化摩擦の結果であり、決起した一部のアイヌの特殊な事例であり、そもそもアイヌには、民族的な一体性はなかった、と指摘します。逆に、松前藩のアイヌ不干渉政策によって、アイヌの自立した社会を温存したと、評価します。
しかし幕府は、松前藩のアイヌ愚民化策と収奪を糾弾し、対外危機感の薄さと国家意識の欠如に憤慨します。アイヌの日本への同化こそが、未開状態から救い出せるのだと確信します。こうした認識の延長上に、幕府による蝦夷地の直轄化がありました。しかし、この蝦夷地植民地化は、経済的利潤を目的にしたものではなく、「ロシアの南進という悪夢に脅かされた防衛本能の発動であり、日本近世ナショナリズムの最初の血の騒ぎだったのである」と著者は指摘します。
この時代の日露交渉史に不可欠な登場者に日本人漂流民がいます。漁師や商人が太平洋で漂流し、カムチャツカやアリューシャンにたどり着いて、ロシア側に救助されました。そして、その内の幾組かはペテルブルグまでいき、ロシア皇帝に謁見しています。日本語教師として迎えられたのです。日露語辞典の編集に関わった者もいました。南部藩や薩摩藩の言葉が、日本語としてロシア人に学ばれたようです。また彼らは、ロシア人が日本を訪問するときの通訳としても活躍しました。ただ実際には、日露間の通訳には、ロシア語-アイヌ語-日本語というように、アイヌ語を媒介とした会話がなされたようです。勿論、間に入ったのは、アイヌたちです。
19世紀に入り、ロシアの南進はさらに積極化します。ラクスマン、レザーノフ、ゴローヴニンと続きます。ラクスマンは、ロシアの長崎での交易の約束を持ち帰り、レザーノフはこれにもとづき長崎に渡航しますが、半年以上待たされた挙句、交易かなわず帰国することになります。この長崎での日本側の仕打ちと屈辱に対して、レザーノフは報復をします。レザーノフの部下たちによるサハリン(1806年)・エトロフ(1807年)襲撃です。エトロフ襲撃の時のエピソードと著者の感想が、大変印象深い。砲撃するロシア船に対して、日本守備隊はまったく士気を喪失して戦わなかったのです。これに対して著者は、次のように評します。「徳川国家は初めは強大な軍事力を有する武士集団が支配する兵営国家として出発しながら、19世紀初頭には、武力紛争をできるだけ回避し、平和な談合による解決を重んじる心性が上下ともに浸透する社会を作り出していた。これが恥ずべき事実であるはずはない。ただ、虎狼の論理がまかり通る国際社会の中では、その心性は通用すべくもなかったのである」と。
1811年、ロシア極東域の海域調査などのためにやってきた海軍少佐ゴローヴニンが、クナシリ島で捕縛され、函館の牢獄に囚われます。この時の幕吏たちとのやり取りは、極めて興味深く、当時の高級官僚たちの能力や意欲とともに、彼らのユーモアのセンスと懐の深さを窺うことができます。日本側の尋問の主題は、先のロシア船によるサハリン・エトロフ襲撃のことです。まず、奉行の但馬守による取り調べの際のエピソード。ロシアの捕虜となっていた男が、通訳を買って出ます。しかし、うまく通じない。そのうちに、彼は「父」という基本的なロシア語も知らないことがわかり、奉行はじめ同席の役人は、大笑いしました。但馬守のゴローヴニンへの質問も、面白い。ゴローヴニンの持っていた鍵についての問答。何の鍵か?ワイシャツケースの鍵だ。シャツは何枚?知らぬ。ボーイの知っていること。ボーイは何人?その名は?歳は?・・・?・・・?・・・?。著者は言います。「これは江戸人特有の尻とり的連歌的思考なのである。世界を論理的に系統立てて把握しょうとするのではなく、パノラマのように拡がる世界に、連想作用によって自在にはいりこもうとする独特なアプローチだつた」。日本側は、下役のものにロシア語を学ばせるとともにロシアやヨーロッパの情報を収集させます。ゴローヴニンは、日本人の才能の高さに、驚きます。
幕閣からの「ロシア船打ち払うべし」の命を知ったゴローヴニンは脱走しますが、間もなく逮捕されました。そのとき、日本兵も村人たちも、彼に同情し食物や水を差し出し、涙を浮かべる者もいました。ゴローヴニンは、「文明化したヨーロッパ人が野蛮人とみなしている日本人は、実にこんな心情を持っているのだ!」と書き記しています。
本書最高の見せ場は、ゴローヴニンの釈放交渉のために渡来したリコルドと、彼の人質となった高田屋嘉兵衛との丁々発止のやり取りと、そこから生まれた友情を描いた場面です。捕虜釈放を武力をもって要求する、と脅すリコルドに対して嘉兵衛は、乗組員72名を相手に戦って切腹する、と啖呵をきります。リコルドは、嘉兵衛の悲壮な覚悟と度量の大きさに、尊敬の念すら持ち、日本側との交渉を嘉兵衛に任せることにしました。リコルドの高田屋嘉兵衛との友情を通した日本人論は是非、書き留めておきたい。「ヨーロッパの文明人諸君よ。諸君は日本人を狡猾兇悪で、復讐心が強く、甘美な友情などゆかりもないものと考えているが、それは間違いだ。日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人びとがいる」。
リコルドと嘉兵衛の連携によって、ゴローヴニンは釈放され、2年3か月に及ぶ捕囚は終りました。しかし、「レザーノフの渡来以来、幕府官僚と民間に根強く存在していた対露開国論はここに命脈を絶たれ」ました。
別れの日、日本側は大量の食糧を贈り、大勢の日本人が積み込みを手伝いました。その日のことを、リコルドは次のように書きました。「思想も教養も無限に異なり、その生国において地球の半分もあい距たった人びとが、この時ばかりはひとつの民族に生まれ変わったかと思われた」。ゴローヴニンたちを乗せたロシア船ディアナ号が、函館湾を離れていく時、ロシア将兵は「ウラー」と歓呼し、嘉兵衛も「ウラー、ディアナ」と叫びました。読者の私も、嘉兵衛に感情移入し、最後の場面には、うっすらと涙を滲ませました。
いささか長文の紹介となりました。読書時につけた付箋が数十枚と成り、あれもこれもと書くうちに、このようになりました。蝦夷地という狭い地域の歴史に、これだけの地球的な広がりと縄文時代からつづく長大な時間が込められていて、息つく暇のないほどにエキサイティングな読書でした。今秋、武田泰淳著『森と湖のまつり』をテキストに、北海道に縁の深い友人たちとともに、北海道旅行を目論んでいるのですが、新たにこの本も、是非ともテキストとして取り上げたい。
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