映画『クレアモントホテル』
ロンドンの下町にあるクレアモントは、長期滞在型のホテル。娘の家からこのホテルにやってきたパルフリー夫人は、親の娘、夫の妻、娘の母親といった、しがらみと役割の中の自分を解放し、たったひとりでの自立した生活を望んでいました。ホテルに滞在する老人たちは、性格も経歴もまったく異なり、勿論趣味も、同じではありません。ただ、彼らに共通しているのは、孤独であること。秘かに、人との縁(えにし)を求めています。
この映画には、老人が転倒するシーンが三度、描かれています。転倒は、幼児と老人に特有のアクシデントです。とりわけ老人の転倒は、深刻な事態です。転倒した二人の母のことを、思い出します。義母は、阪急梅田駅のプラットホームで、若者に突き飛ばされて大腿骨骨折の重傷を負い、実母は、私の家の居間で倒れ間もなく、亡くなりました。二人にとって、この転倒が心身に与えたショックは、大変大きいものでした。映画『クレアモントホテル』の三度の転倒は、最初のそれは幸運をもたらし、二度目と三度目の転倒は、逆の結果となりました。
パルフリー夫人は、ホテルから出掛けた折、街角でものに躓いて転びました。その時、ひとりの青年が、手をとって助けてくれました。この偶然の出会いが、世代を越えた二人の温かく、微笑ましい交流へとつながっていきます。青年ルードは、ストリート・ミュージシャンとして食いつなぎながら、作家となる夢を追っています。老婦人と青年は、夕食を共にし、ワーズワースの詩を、暗誦し合います。夫人は、生き生きとした日々を、送ります。
ある日、老人たちがホテルのラウンジでくつろいでいた時、ひとりの老婦人が突然、床上に倒れこみました。驚き、慌てるホテル・マネージャーはただ、手をこまねくばかり。しかし、いつもは冴えない老ポーターは、「救急車を呼べ!」とマネージャーに、敢然と命じます。このとき丁度、パルフリー夫人の娘が、面会に来ていました。母親の「勝手」な行動を、なじっていたのです。老婦人が転倒し、まわりがパニックとなっている間、この娘は無関心に、携帯電話の液晶画面に見入っていました。後日、パルフリー夫人は、新聞の死亡欄で、倒れた老婦人が亡くなったことを知ります。このシーンを見て、私の母がそうであったように、英国でも、老人が新聞の死亡欄を見る習慣があることを、発見しました。
青年ルードが、恋をします。パルフリー夫人は、若い恋人たちを温かく見守りながらも、どこか寂しさを隠せません。そうした夫人を気遣うホテルの仲間たちに思わず反発し、ホテルを飛び出して行った直後、彼女は入り口の階段で転倒し、腰骨を折ってしまいます。病院に入院し治療を受けますが、青年の祈りも届かず、遂に、亡くなってしまいました。
映画『クレアモントホテル』の三度の転倒は、このように描かれました。パルフリー夫人の気品とウィットは魅力的だし、天使のようなやさしさをもった青年ルードも、素敵です。リーフレットの「人生に対する限りない愛がこめられた珠玉の感動作」という表現に納得しながらも、静かに、老いと死をみつめた作品でもある、と付け加えておきたい。
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