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2011年2月25日 (金)

新井白石著『折りたく柴の記』を読む

4105nff6s3l__sl500_aa300_  元旦の朝日新聞に、中学3年間でたった一冊、200ページ余の中勘助著『銀の匙』を教材として読んだ、という元国語教師の話題が、紹介されました。私の加藤周一著『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫上・下)の読書は、読み始めて16ヶ月たち、やっと上巻を終わるところまできました。読みの深さは到らなくても、かけた時間だけは、先の元国語教師に近づきつつあります。『序説』はゆっくりと、「第七章 元禄文化」に入っていきました。

 加藤氏は、16世紀末から17世前半の日本文化の最高の表現は、文芸ではなく建築(築城・茶室)、造園(修学院離宮・桂離宮)、絵画(宗達・探幽・風俗画)、工芸(古田織部)などの造形美術にあった、と指摘します。これに対して、17世紀末、元禄時代(1688~1704)を中心とした時期には、荻生徂徠(1666~1728)・新井白石(1657~1725)・近松門左衛門(1653~1724)・松尾芭蕉(1644~1694)・井原西鶴(1642~1693)などが輩出し、まさに学問・文芸が一気に花開いたような様相を呈しました。加藤氏は、これら「元禄文化」の特色として、①徹底して現世的・世俗的な文化であったこと、と②価値の二重構造(表の義理と禁欲的倫理、裏の人情と感覚的快楽主義)が発達したこと、をあげています。
 そこで先ず、私の「元禄文化」へのアプローチは、義理と禁欲的倫理を説いた儒者のひとり新井白石の『折りたく柴の記』から読み始めます。テキストは、桑原武夫訳(中公クラシックス 04年刊)を使用。
Photo_2  新井白石は、浪人の息子で、儒者として甲府の徳川綱豊(後の六代将軍家宣)に仕え、幕府の政策立案者として重きをなしました。著書『折りたく柴の記』三巻は、白石が吉宗の将軍就任時に罷免(1716)された直後に、執筆され始めました。上巻は、白石が幕政に直接参画する以前の生涯を描き、中・下巻は、家宣・家継二代の将軍時代(1709~16)、白石自らが関与した政治的回想録です。加藤氏は、白石の日本語散文は西鶴のそれとともに、同時代の日本では画期的であった、と評価しています。
 白石の禁欲主義は、父親からの教訓のなかで、育まれます(上巻)。「男は、ただ忍耐ということだけを修練すべきである」「(金と色)の欲のない人だけが・・・人に嫌われないもの」。この忍耐と欲のなさは、幕政参画以前の困窮した青年期に早くも、遺憾無く発揮されます。白石は、父の仕えた土屋利直の死後、土屋家の内紛に連座して追放・禁錮に処され、父の俸禄も奪われ仕官の道も絶たれました。21歳のころです。同情した知人たちに、冨商の養子になることや医者になることをすすめられますが、断ります。また、金三千両と宅地の提供を受けて婿となり、大学者になるべく勉強していただきたい、との申し出にも、「蛇が小さいうちは、わずかばかり短刀でさし切ったにすぎぬところが、大きくなってみると、一尺あまりの傷となった」という喩えをひいて断ります。現在の私の傷は小さいが、私が大学者になったら、傷は大きくなる、といっているのです。この「傷」は、追放・禁錮処分のことを指しているのでしょうか。白石には、欲はありませんが、大きな自信があったのです。その後、禁錮は解かれ堀田家に仕官しますが、主君刺殺という事件のあと、堀田家は不幸に見舞われ、多くの家来たちが去って行きます。しかし白石は、主従の関係を重んじて残り、長年にわたり妻子を飢えさせない程度の低い禄米に、甘んじ続けます。しかし、35歳のとき堀田家を去り、再び浪人となります。市中で塾を開いて、食いつなぎます。こうした困窮のなかにあって、恩師の木下順庵から加賀藩への仕官を勧められますが、加賀に年老いた母親がいるという友人に、その職を譲りました。まさに白石は、義理と忍耐と無欲の人だったのです。
 中・下巻は、政治家・新井白石の面目躍如たるところ。先ず中巻の記述から、白石の政治的業績二つを紹介し、彼の政治・社会思想を見ておきます。
 ①五代将軍綱吉時代の「生類憐みの令」の廃止と恩赦について。
 1708年8月、馬のたてがみを切ることを禁止。人びとの引いたり乗ったりしている馬は、野生の馬のようになる。更に10月、馬に乗ることも禁止。馬に乗るべき身分の人も、馬を引かせるだけで乗ることがもできなかった。これらは、「生類憐みの令」の最後の布令。
 1709年廃止。白石曰く「近年、このことで罪をうけた者が何十万人になるか、数えきれぬほどである。そのときに裁決が決まらず、獄死して死体を塩づけにしてある者が九人まであった。まだ死なない者もその数が多い。この禁令をなくさなければ、世の中の憂いと苦しみはやむことがない」。また「一羽の鳥、一匹の獣のために死刑に処せられ、一族まで殺され、そのほか流罪・追放など、人びとは安心した生活をすることができない。父母・兄弟・妻子が家や村を離れて流浪の身となり、ちりぢりになり、その数十万人あるかわからない。いまにおいて天下に大赦をされることがなければ、どうして人民が生きかえった思いをすることができよう」。その結果、8831人が解放されました。ただ、この白石による「生類憐みの令」批判は、綱吉没後のこと。この分、評価は差し引かなければなりません。
 ②「越後の農民が、地方官(大庄屋)の課する年貢過重を、その頭越しに、江戸の中央政府に訴えたとき、農民の行動の非合法を無罪とし、かえって腐敗した地方官の苛斂誅求を警めたこと(1710)。」(加藤氏による要約)
 白石は、この事件の背景を次のように分析します。諸大名・旗本の所領替えのとき、肥えた田や利益の上がる山林・河川の多いところを天領(幕府直轄地)とし、残りを私領としたため、農民も領主たちもともに苦しむことになった。また、地方官(大庄屋)は、幕府役人(代官)の滞在費を農民たちに負担させ、苦しめていた。このように、農民たちの訴えは、道理の無いことではない、と白石は強調します。幕府の中心にいて、幕政の自己批判を明確にしています。時の将軍・家宣の懐の深さをも語るものです。
 この2項をみただけでも、白石の「合理主義と事実を尊重する精神」と「自律的な人間の知的勇気」が「はるかに時流を抜いていた」という加藤氏の新井白石評を、十分にうかがうことができます。
 次に、当時の日本社会を知る上で興味深い事例を、下巻の記述から要約します。
 ③正徳の疑獄について。夫が行方不明となった妻の訴えがきっかけで、夫が父と兄に殺されたことが判明します。「婿を殺した二人の罪は、疑うことはできない。しかし、その妻なる者は、父の罪をあばいたという罪の疑いがある」という事件について。この事件について、評定衆(裁判官)は、「財産を没収して奴婢とすべき」といい、林大学頭信篤(儒者)は、「父を告発した罪をもって処断すべき」つまり、絞殺すべし、と主張しました。これに対し白石は、「この女は罪せられるべきではない。・・・父と夫のために尼になるようにすすめ・・・父と夫の財産を・・この寺に施し、生活の心配を除いてやるならば、・・・法律も、女の操も、両方とも守られるであろう」と意見した。まさに、大岡裁きです。儒者の意見はいささか過激だとしても、評定衆の意見が恐らく、当時の常識的な判断だった、と想像します。そうした中での白石の意見は、まさに合理的で実際的、しかも公正で人情味あふれる判定でした。
 ④奉行所は「獄につながれた者は決着をつけるべき」との主張にもとづき、「七、八年前に、主人を殺した者の死体を塩づけにしてあったのを、「その死体に対して法律どおり処置せよ」と言って、干からびた死骸を縄でくくって、はりつけにした」。白石は、「言語に絶しただらしないこと」と奉行所を非難します。江戸中期の法治主義の幼稚さと幕僚たちの硬直した官僚主義に驚きます。白石はここでも、現実的・実際的です。
 ⑤賄賂を行う商人のことについて、白石自身の経験を記しています。「去年のこと・・・長崎貿易に関する利権のことをたのみに来て・・・お礼として金五百両・・・事が成就したあかつきは、毎年ご子息たちに三百両ずつの金をさしあげ」るとの申し出があった。白石は言います。「私のような者にすら、このようなことを言うのである。およそ権門勢家の人びとのことなどは、想像がつくであろう」。徹底的無欲の人、白石への賄賂は、行き先を間違えたようです。役人への賄賂は、古今東西、変わりません。
 ⑥今で言えば、二世議員のことについて。「御先代家宣公が世を継がれてから、老中の人びとが、日々御下問を受けることがあったけれども、この人たちは、元来世間でいう「大名の子」であって、むかし道理を学んだということもなく、いまのことをよく知っているわけでもなく、年来、上様の御命令を伝えただけで、・・・国家財政の有無すら知らないという程度であつた。ましてや、機密の政務など、その本末がわかろうはずはなかった」。こちらも、古今、変わらないことのようです。
 いままで観念してきた「儒者・新井白石」のイメージは、固くて難しく寄り付き難い、とかってに思い込んでいました。今回、『折りたく柴の記』を読んで、それが間違いであることがわかりました。桑原武夫の現代語訳もわかり易く、なによりも『折りたく柴の記』そのものが、形而上の議論は一切なく、現実の実際的な諸問題についての実証的・合理的思考が貫かれているため、時代を貫通して、現代の私たちにも訴えかけるものがあります。時には、現代政治への警告すら、文中に読み取ることができるのです。 

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