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2011年2月15日 (火)

シンポジウム『新田郡衙と東山道駅路』聴講

10bun_sympo_2 2,3日前の新聞記事で知り、『新田郡衙と東山道駅路』をテーマとしたシンポジウムを聴講しました。太田市(群馬)教育委員会主催で、会場は市文化ホール。案内には、「申し込み不要・先着500名」と記されていましたが、遺跡発掘の報告会なので、そんなに参加者は多くない、と思って出かけました。豈(あに)図らんや、会場ホールには、県内外から研究者や古代史ファンが集まり、座席の八割方が埋まって熱気すら感じました。

 まず、基調報告として、太田市教育委員会の小宮俊久氏が、2007~10年に実施した新田郡衙(ぐんが)の発掘調査成果を発表されました。(郡衙は、奈良・平安時代の郡におかれた役所で、正倉(租税の米倉)・郡庁(儀式・政務所)・館(役人宿舎)・厨〈役人の給食場)から成る。現代の地方自治体とのアナロジーでいえば、上野国(こうずけのくに)が群馬県、新田郡が太田市、国衙が県庁、郡衙が市役所)。発表要旨は、次の通りです。
200807301949_0_2  ①郡衙の中心施設である「郡庁」跡が発見され、それが一辺約90mの全国最大規模の郡庁であることが確認された。
 ②郡衙の外郭が、東西約400m、南北約300mの台形の範囲に、大溝が巡らされていることがわかった。
 ③郡衙の南側には、古代の道路(東山道)と推定される施設があった。
 ④郡衙内に、10棟以上の「正倉」跡が発見され、火災により焼失した建物跡から炭化米が多量に出土した。
 ⑤これら発見された遺跡は、11世紀の古文書『上野国交替実録帳』(役人の引継ぎ文書下書き)の記載にて、裏付けられている。

 次に、東大大学院教授の佐藤信氏(日本古代史)が、『新田郡家と古代国家』と題する基調講演をされました。佐藤氏は、放送大学で日本古代史を講義されており、私は昨年の春から夏にかけて、テレビで受講しました。佐藤氏の基調講演で、小宮氏の発表された発掘調査成果の意味と意義が、よく理解できました。なお佐藤氏は、「郡衙」のことを「郡家(ぐうけ)」と呼称していました。佐藤氏の講演の中から、興味深く感じた点を、いくつか書き記します。
1.日本古代史研究の最近の特徴
①中国・朝鮮半島・北方・南方などとの国際関係が重視されてきた。
②出土文字資料や古代遺跡の発掘によって、古代像が立体的に把握できるようになった。
③地域の歴史が掘り起こされ、地方の古代史像が、明らかになってきた。
2.古代の地方官衙(国府・郡家等)の役割と意味
①古代国家の中央集権的国家体制を保証した。
②郡家は東山道に面して設置され、建物の立派さと米を貯蔵した正倉を、視覚的に民衆に見せ付けて、律令国家の権威と安心を付与した。
③新田郡家には、方100m規模の石敷広場をもつ郡庁があり、白く輝く石敷広場は儀礼空間であり、国家の権威を示すものであった。
④この郡庁は、他の郡庁が方50mに対して大規模であり、国庁と同規模であるのは、新田郡が交通の要衝にあったから(東山道から東山道武蔵路が分岐)。
⑤新田郡家や周辺の遺跡から出土した唐三彩陶枕は、律令政府が唐から持ち帰った高級品であり、律令政府と郡司との密接な関係を象徴する威信財である。
3.東国の地方豪族と天皇・上級貴族との関係
①佐位郡郡司氏族、檜前部君(ひのくまべのきみ)氏の娘は、采女として称徳天皇(在位764~770)に仕えた。(佐位郡は、現在の佐和・伊勢崎市に位置した)
②766年、外従五位下から外従五位上へと昇格、また767年、「上野佐位朝臣」の姓を賜り、768年、本国の国造に任じられた(律令制下の国造は祭祀のみに関与)。
③地方豪族出身の采女たちと出身母体の地方豪族が、女性天皇称徳天皇を支える存在だった。
④一方、郡司に任命された地方豪族は、地域における自らの支配権を拡充するために、中央の天皇権力と結びつき、一族の子供を采女や舎人として朝廷に仕えさせた。
4.古代交通路
①主要な陸上交通路は、七道(東山道、東海道等)の国府を結ぶ駅路と、郡家を結ぶ伝路からなる。現代道路とのアナロジーでいえば、国道と県道。
②駅路は、直線道路で道幅ひろく(12m、9m、6m)、両側溝をもち、版築(撞き棒で土を何層も突き固める)で造られた。
③郡の道(伝路)は、他の郡家をつないだり、郡内各地の郷とを結び、網の目状に展開していた。
④今後、駅路や伝路の研究が進み古代の地域交通がさらに明らかになれば、各地域の古代史が、日本列島全体の古代史と密接な交流の中で展開していたことが明らかになるだろう。
5.東国社会の変容
①東国とは、東山道・碓氷坂と東海道・足柄坂の東、つまり坂東、いまの関東を指す。
②「武蔵国造の反乱」に見る倭王権の東進
  武蔵北部の武蔵国造笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と武蔵南部の笠原小杵(おき)は、武蔵国造をめぐって争い、小杵は上毛野君(かみつけのきみ)小熊と手を組んで、使主を殺そうとします。しかし、使主は大王権力と組んで、小杵・小熊連合を破ります。この結果、大王権力は、南武蔵や上野に直轄領としての屯倉を設置し、東国は6世紀には、国造制という形で大王権力のもとに組み込まれていった。(『日本書紀』から)
③大王権力に組み込まれた東国は、倭王権の軍事的基礎となつた。主に東国が、防人(北九州の守備)・鎮兵(陸奥・出羽の守備)を出した。
④蝦夷戦争(三十八年戦争)に対する兵士・武器生産・兵糧など東国の負担が増大し、また桓武天皇による平安京造作もあり、東国は疲弊した。
⑤こうした社会的疲弊が、僦馬の党(899年、板東の富豪の輩による群盗)の海道荒しや、平将門の乱(940年)につながり、やがて鎌倉幕府への道とすすんでいった。

 佐藤氏の講演は、慣れない専門用語に苦しみながらも、大変面白く刺激的で、古代地域史研究の重要さを余すところ示されました。朝10時から始まった基調報告と講演で午前の部は終わり、午後から二人の報告・講演を巡ってのパネルディスカッションが開かれました。こちらは、若手とベテランの研究者間で、喧々諤々の論争もあり、興味が尽きません。このパネルディスカッションを通して、午前の部の報告と講演を、より深く理解できました。
 今年は、地元の多胡碑に記された多胡郡建郡1300年の記念すべき年にあたります。高崎市では、「多胡郡建郡1300年記念事業」の一環として、3月6日(日)に、シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」-多胡郡の成立とその時代-が開催されます。古代史ファンにとっては、こちらも楽しみです。

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コメント

昨晩 ちょうど放送大学の気象学の受講申請をしまた。
古代史好きには、佐藤教授の古代史の内容には、かなり惹かれましたが、何せ中世には興味がもてずに…ギリギリまで悩んで(本日2/28締め切り)外しました。
蝦夷地が完全に中央に組み入られ…
北東アジアとの交流も基本的に無くなり…
(言いがかりを承知で)葬式仏教の大半が生まれた時期…今一そそら無いかな

本に趣味に地域に妻に?自然体で 正しい生活 何よりです(^-^)/

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