« 京都小旅行 | トップページ | 箕郷の梅は三分咲き »

2011年3月 8日 (火)

シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」

 711年(和銅四年)3月9日、現在の高崎市吉井町に、片岡郡・緑野郡・甘良郡3郡に属した300戸からなる新たな郡、多胡郡ができました。この建郡のいきさつを刻した石碑が、多胡碑です。それから丁度、1300年。一昨日、高崎市の群馬音楽センターで、多胡郡建郡1300年記念事業のひとつ、シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」があり、聴講しました。

 シンポジウムは、3人の考古学者と1人の日本古代史研究者による計4時間にわたる講演会と、夫々の講演で提起された問題をめぐる講演者4人によるパネル・ディスカッションで構成されていました。2000人定員の会場は、参加者によって8割方が埋まり、多胡碑や東国古代史の人気ぶりをうかがわせました。
 講演会の講師と演題は、次ぎの通りでした。
①土生田 純之(はぶたよしゆき、専修大学教授)「東国における渡来人の位相と多胡郡の建郡」
②平川 南(国立歴史民俗博物館館長)「多胡碑の輝き」
③亀田 修一(岡山理科大学教授)「渡来人の東国移住と多胡郡建郡」
④右島 和夫(群馬県文化財保護審議会委員)「多胡郡成立前夜-古墳時代の多胡郡域-」

 短時間(といっても7時間に及ぶシンポでしたが)に膨大な量の考古学と古代史の知識を詰め込まれ、いささか消化不良気味ですが、中には大変刺激的で興味深い新知見や論点があり、なによりも現在住んでいる地域の千数百年前の歴史であり、いやがうえにも強く、心引かれました。いくつかの項目について、メモしておきます。

①「多胡」とは多数の渡来人を意味する。従って多胡郡建郡は、古墳時代から古代にかけて日本列島にやってきた渡来人と深い関係がある。
②朝鮮半島から日本列島への人の渡来は、5世紀後半・6世紀後半・7世紀後半の3時期に集中した。
③5世紀後半、渡来人たちは、大和政権によって主に馬匹生産を目的に、東国各地に配置された、と考えられる。大型古墳の被葬者(首長)を頂点にした階層構造が発達していた西毛(群馬西部)に来た渡来人は、下位に位置づけられた。
④6世紀後半(渡来人集中第2期)の遺跡からは、渡来系副葬品(威信財)が出土される。それは大和政権が、軍事・外交に携わり朝鮮半島とも密接な関係にあった上毛野(古墳時代の群馬)の大首長に分与したものである、と考えられる。
⑤『続日本紀』によれば、多胡郡建郡50年後(766年)に、上野国の新羅人多数に吉井連の姓を賜った、とある。また、多胡郡地域の古墳時代遺跡からは、伽耶系や百済系文物が出土している。多様な出自を持つ渡来人が雑居していた可能性があるが、どうか。(以上は、土生田氏の講演から)

⑥日本列島の石碑は、7世紀から9世紀前半までに26基立てられ、うち17基が残っている。この数は、古代中国・朝鮮と比べ極めて少なく、碑を立てることは、日本固有の文化ではなかった。これらの石碑の多くは、渡来人を含め、中国・朝鮮文化と関係深い人物が、特別の気持ちを込めて立てた、と考えられる。
⑦古代朝鮮の石碑は、高句麗の好太王碑のように、王の顕彰の色彩が強いが、日本の石碑は、仏教色が強く、文字の小さいのが特徴である。
⑧これに比べて多胡碑は、仏教色のない建郡碑であるが、単なる建郡碑ではない。「羊」という建郡申請者であり新置・多胡郡の長官となつた人物の顕彰碑である、とみるべきだ。それは、碑文の分析と碑に書かれた文字の大きさ、および石碑の形(笠石)から推測されている。
⑨上野国西部には、渡来人のほか、律令国家に服属した蝦夷も移住させられ、碓氷・多胡・緑野の3郡に「俘囚郷」が設置された。緑野郡の俘囚郷に配置された出羽国の蝦夷が「上毛野緑野直」と賜姓しており、中央政府の東北政策と深く関係していた。(以上は、平川氏の講演から)

⑩5~7世紀、日本列島の地方勢力として、東西で大きな力を持っていたのは、吉備(岡山)と上野(群馬)である。従って、渡来人の移住についての考察は、両者の比較が重要である。
⑪5世紀前半、吉備の渡来人は、造山古墳(前方後円墳)の被葬者のもと、鉄器生産・須恵器生産、海上交通の管理の仕事をしていた。階層構造での渡来人の位置づけは、上野でのそれと類似する。
⑫463年吉備の反乱・鎮圧にて吉備は衰退するが、6世紀中頃、蘇我氏の影響下に、屯倉設置により畿内渡来人が移住した。
⑬5世紀の渡来人移住を証明する遺構・遺物が、西毛地域各地から出土している。(初期かまど、鍛冶遺構、馬土擴(墓)、積石塚、土器、装身具、馬具等)
⑭6世紀の屯倉設置と渡来人の関連を示唆する遺跡が、出土している(緑野屯倉、佐野屯倉)。物部氏の関与も示唆された。
⑮7世紀の朝鮮系の考古学資料は、在来系と区別がつかなくなるが、多くの文字資料で、東国と朝鮮半島との交流のあとを追える。「日本書紀」からいくつかあげると、
*666年百済人男女2千余人東国移住 *684年百済人僧尼俗23人を武蔵国へ安置 *687年高麗人56人を常陸国へ、新羅人14人を下野国へ、新羅人22人を武蔵国へ住まわせる。 *689年新羅人を下毛野に住まわせる。・・・・
⑯この時期の朝鮮半島は、660年百済滅亡・663年白村江の戦い・668年高句麗滅亡・676年唐の撤退と新羅による朝鮮半島統一、と大混乱にあり、百済・高句麗・新羅の人びと多数が、日本列島に移住した。こうした歴史的文脈の中で、711年の多胡郡の建郡があった。
⑰上野の渡来人の役割は、馬飼育・鉄器銅製品生産・土器須恵器生産・絹織物生産などだった。
⑱上野と朝鮮半島との関係は、朝鮮半島→畿内→上野、朝鮮半島(→畿内)→上野、朝鮮半島→北陸→上野など複数のチャネルがあった。(以上は、亀田氏の講演から)

⑲古墳時代の群馬は、上毛野(かみつけぬ)という大きな枠組を維持しつつ、西毛地域(利根川以西前橋・高崎中心)と東毛地域(太田市中心)に拮抗した勢力があった。かれらの共通点は、平野部の大規模農耕開発を成功させたグループ意識であった。
⑳5世紀以降は、西毛地域の優勢化が目立つようになった。原因は、古東山道の開通と馬の登場である。(西からの新文化は、西毛地域から入って、関東・東北へと広がった)
⑳‐①古墳造営にあたっては、ヤマト王権との太いパイプによって、最新の古墳造営スタイルを東日本では一番早く取り入れている。
⑳-②鏑川沿いの下仁田町・富岡市・甘楽町・吉井町・藤岡市からは、上信越自動車道建設等によって、想像を絶する遺跡・遺構・遺物が発掘され、6世紀後半以降、この地域が急激に発展していったことがわかった。ここに、多胡郡成立の背景がある。(以上は、右島氏の講演から)

 さて、長時間にわたる講演会とシンポジウムから、興味深い項目をメモしました。現在私の住んでいるこの地にあった古代の人びとが1300年もの大昔に、「多胡碑」に込めたメッセージは、こんなにも多様で豊かであったのかと、しみじみと感じ入りました。地域の古代史が、ますます面白くなってきました。
 もしも、今回のようなシンポジウムに、研究者に交って歴史小説家が参加していたならば、彼はどのように「多胡碑」を読んだでしょうか。研究者たちがことばの端々に、仮説として遠慮気にふれたことをベースに、小説家たちが、自由かつ飛躍的に想像力をめぐらせたならば、どんなにエキサイティングなシンポジウムになったかと、想像を巡らせてみました。

« 京都小旅行 | トップページ | 箕郷の梅は三分咲き »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/155294/51060202

この記事へのトラックバック一覧です: シンポジウム「多胡碑は何を伝えようとしたのか」:

« 京都小旅行 | トップページ | 箕郷の梅は三分咲き »