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2011年3月10日 (木)

箕郷の梅は三分咲き

Img_9216_1_3  群馬県の梅の三大産地の一つ、高崎市箕郷町へ梅を観にいきました。好天とはいえ空気は冷たく、時々吹き付ける強風に、震えあがりました。 箕郷梅林の梅まつり会場になっている蟹沢地区の白梅は、現在三分咲き。一方、数の少ない紅梅は、満開をやや過ぎた頃でした。

Img_9211_1_2 梅まつり会場は、梅林のなかの散策路や展望台のある公園からなり、近くにJAの梅干し加工場があります。味噌おでんと焼き饅頭を売る屋台がでていたので、ここでお昼としました。こんにゃくの味噌おでんを食べながら、店の女将さんの梅談義に耳を傾けました。地元の梅栽培農家が、店を出しているのです。Img_9196_1_1_2 隣りの客が、豆腐を美味しそうに食べていたので頼んだら、七味唐辛子をかけた冷奴が、出てきました。冷たかったですが、おいしかった。
 梅公園に、当地の梅栽培の由来が書かれた看板がありました。それによると明治のはじめ頃、地元の農民が、山野に自生すImg_9262_1_2る「しばうめ」のなかから良品質の梅を選抜し、自家用・加工用に、畑に数本植えたのが、栽培のはじまりと推定されています。その後、梅栽培の先駆者たちによって、主として桑畑の周囲に植えられていましたが、1920年代に入って、梅の栽培技術向上に熱心に取り組んでいた永井忠三郎氏が、Img_9397_1_2梅の高収益性・価格安定性・栽培適地であることに注目して、桑園の桑を抜き、一面に梅(白加賀)を植えて、現在のような梅林方式にした、という経過をたどったということです。この1920年代に植えられた白加賀が、この梅公園に何本か残っていました。樹齢80年から90年となります。Img_9266_1
 梅まつり会場をあとにして、昨年ジャム用に沢山の梅をいただいた梅農家のSさんを、訪ねました。Sさんは納屋で、昨秋芽接ぎした苗木を、梅林に植える段取りをしているところでした。そこへ奥さんがやってきて、秋から続けていた梅の剪定作業がやっとおわった、とほっとした顔をしました。茶と漬物を頂きながら、Sさんの話を聞きました。当地で最も多い品種の白加賀は、花粉量が少なく自家受粉の能力が弱いこと。そのため、多品種の受粉樹を園内に植え、蜜蜂の助けを借りて、受粉させること。しかし、最近では蜜蜂の数が減少し、また受粉期である開花期が低温になると、蜜蜂の動きが不活発となって、思わぬ不作の原因になること。不作の程度は、前年比30%とか10%と極端な年があったこと。こんなことどもを1時間ばかり話し、再訪を約束して、Sさん宅を辞しました。Img_9318_1
 帰り道、ある寺の門前に立った奇妙な石造に出会いました。胡坐をかき苦虫を潰したような顔をした男像と、片膝立てに座り、垂れた乳房をさらした女像。帰宅後、ネットで調べたところ、寺名は曹洞宗の長純寺、男女一対の石像は、閻魔大王と奪衣婆、とわかりました。ウィキペディアによれば、「奪衣婆(だつえば)は、三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。・・・奪衣婆が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁という老爺によって衣領樹にかけられる。衣領樹にかけた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる」。この奪衣婆の相棒は、懸衣翁(けんえおう)ということになりますが、この苦虫の男、閻魔なのか懸衣翁なのか、わかりません。それにしても、奪衣婆の亡者を咎める形相のすごさと垂れた乳房(ちぶさ)の貧弱さのコントラストは、見ていてなんともおかしい。制作年は、調べることができず、不明です。

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