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2011年4月28日 (木)

大震災被災地を訪ねて-上-

 先週土曜日(23日)から昨日(27日)までの5日間、宮古市田老と伊達市梁川町に行ってきました。田老では、大津波被災者の避難施設を訪ね、梁川町では、大津波に原発震災が重なった被災者の避難先を訪問しました。そして、この春とれたところの新茶を、被災者の皆さんに飲んでいただきました。この10年間、日本茶の仕事をしてきたのですが、茶を淹れてこんなにも喜んでもらったのは、初めての経験でした。

 まず24日,25日の2日間、岩手県宮古市田老地区の被災者避難施設、グリーンピア田老を訪ねました。隆起した断崖の上に拡がる台地には、ホテルや体育館・テニスコートが敷設されています。かつてリゾートホテルとして建設されたものです。この体育館とホテルに田老地区の被災者約600人が、避難してきています。テニスコートには、第一期分の仮設住宅が建設中で、5月連休明けの入居に備えていました。
 4年前の3月、新茶の営業でこの地に寄ったとき、最初に強烈な印象を受けたのは、漁港と町との間に張り巡された無骨なコンクリートの巨大な壁でした。これが、「津波防災の町」田老町の誇る防潮堤だったのです。その後、盛岡の書店で買った吉村昭著『三陸海岸大津波』を読んで、田老町と大津波の長い戦いの歴史を知ることになりました。その田老町が水没した、と報じられたのは、3月12日のことでした。是非当地へ行ってこの目で確かめたい、と思いました。1933年の大津波以降、町民と行政が一体となって築いてきた大津波対策(防潮堤、警報システム、避難路などのハード面と、避難訓練、防災教育などのソフト面)が、今回の大津波でどのように生かされたのか、あるいは生かされなかったのか。そして何よりも、被災者の皆さんに対して、何か手伝いが出来ないか、と思いました。
 私に出来ることは何か。「被災地に新茶を届けよう。そして、急須で淹れた美味しい煎茶を、皆さんに飲んでいただこう」と思い付くのに、さほど時間はかかりませんでした。昨秋まで勤めていた日本茶会社の仲間を通して避難施設に提案したところ、快く賛同され、今回の訪問となったのです。日本では最も早い、屋久島産の走り新茶を持参して、グリーンピア田老に向かいました。
 途中、4年ぶりに見た田老町は、壊滅状態でした。私には、この惨状を的確に表現することは、できません。ただ、16年前に見た神戸の街が、崩壊しながらもそこに残存していたとすれば、田老町は崩壊して流失し、すべてが無くなってしまった、と云えるかもしれません。既に瓦礫の多くが片付けられていましたが、あちこちの空地に、泥をかぶったまま壊れた何台もの自動車が、無造作に転がっているのが、印象的でした。
 避難所となった体育館のなかには、ダンボールの壁で作った「小部屋」が多数できており、被災者の皆さんは、家族ごとに、そのなかで「生活」していました。このダンボールの壁は、つい最近できたところだとのことでした。これらの「小部屋」と入り口との間に、テレビを置いた空地があり、そこを臨時の「喫茶処(どころ)」としました。開店にあたり参加者(7人)の間で、次ぎの3点について確認しあいました。会社の名前を出さないこと、質問をしないこと、ただひたすら美味しい茶を淹れること。そして、いよいよ開店。
 一番客は、開店前から待ちわびていた畳屋主人。旨いかどうか味見してやる、とばかりにやってきて、机の前にドスンと座りました。日本茶インストラクターの友人が丁寧に、急須を使って新茶を淹れました。畳屋主人は、かすかな湯気のたちのぼる湯呑茶碗を神妙に口に運び、ゆっくりと飲み干しました。思わず赤ら顔がほころび、一言「ウマイ」とつぶやきました。これを切っ掛けに、まわりで様子を見ていた女性たちが、二人三人と連れ立って、喫茶処へやってきました。一気に多忙となりました。長机の前に座った彼女たちは、友人の湯冷ましから茶を淹れるまでの一挙一動を、じっと追いかけながら気長に待ちます。そして、茶の入った湯呑茶碗をゆっくり持ち上げて飲んだ瞬間、どの顔にも笑みが浮かびました。「あの日から初めてのお茶です」「急須で淹れたお茶を飲めるなんて夢のよう」「こんな美味しいお茶は生まれて始めて頂いた」と、口々に感想が述べられます。湯呑を口に当てたまま目をつぶって、新茶を堪能している人もいます。なかには、目に涙を浮かべる人もいました。これを見た私たちの女性スタッフが思わず、涙ぐみました。隣りの机では、私たちのメンバーで大阪から来た漬物屋の男性が、大阪名物の水なすの一夜漬けを、お茶請けとして振舞っていました。こちらも大変な人気でした。お茶請けには小さな羊羹も提供し、喫茶処に来た人びとは皆、久しぶりの甘味に舌鼓を打っていました。時には、笑い声も聞こえました。お茶を飲んだ後、喫茶処を後に夫々の「小部屋」へと帰る人びとの足取りは、いくらか軽くなったように感じました。
 女性の後からは、男性たちもボツボツやってきました。喫茶処の隣りの「小部屋」に住む小太りの主人は、準備や片付けの際何かと、私たちに手伝ってくれました。私の淹れた茶を、美味しいねえとつぶやきながら、自分は大のお茶好きで、大切な急須と茶碗を流してしまった、と悔やみました。また彼は、ケイタイで撮った田老町の被災直後の写真を見せながら、熱心に津波の襲ってきた様子を聞かせてくれました。
 赤黒く日焼けした小柄の男性は、漁師だと自己紹介しました。彼は、茶を啜りながら、津波に襲われたときのことを語りました。その時田老では、ほとんどの漁師たちが船には乗らず陸にいた。自分は、やっとの思いで高台に逃れて助かった、といいました。再び来処した畳屋主人は、地震発生と同時に機敏に逃げて助かったと、自分の判断の正しかったことを、自慢気に語りました。しかし、知人夫婦の水死体が、自動車に乗ったまま自宅駐車場で発見されたと云ったときは、悲しい顔となりました。しかし多くの来処者は、津波のことや避難生活のことは語らず、久々の喫茶を楽しんでいる様子でした。
 猫や犬についての情報の掲示板を見つめていた中年女性は、茶を淹れている私に、犬2頭・猫2匹の捜索願いを今日出してきた、とポツリと云いました。今は独り身の彼女にとって、4匹の犬と猫は、掛替えのない同伴者たちだったようです。
 二日目、体育館に戻ったところ、人数が少なくなっているのに、少々戸惑いました。仕事やその他の用事で、出掛けているという。彼らにとって体育館の「小部屋」が仮の自宅となって、彼らはそこから、出勤して行ってるのです。このようにして、日常が戻りつつあるのだと思いました。その午後、田老にある曹洞宗寺院の住職の講話がありました。住職の話は、緊張感を欠いた下品で詰まらないものだったので、ここには書きませんが、田老町民から出された質問をいくつか紹介します。
 「仏壇が流され位牌や過去帳が無くなってしまったのですが、新しく作っていただけるでしょうか?」(中年?女性)
  「毎晩、死んだ人が夢にでてくる。どうすればいいのか?」(高齢の男性)
 「避難所の集団生活の中で、大変神経質になっている。トイレのスリッパが脱ぎっ放しになっていたり、水洗場の床が水に濡れていたりすると、気になって仕方ない。皆さんに注意すべきかどうか?」(40歳代?女性)
  「ペットを救助しないで自分だけが助かったことで、自分を強く責めている人が大勢いる。そのことは仕方がなかったのだと、和尚さんから是非、云って欲しい」(中年?女性)
 大震災はペットたちの命をも、奪ってしまったのです。哀れでならない。
  日曜、月曜の2日間の、田老の人びとに美味しいお茶を飲んでいただこう、という私たちの活動は、皆さんに喜ばれて、無事終了することができました。また、喫茶処の後片付けには、何人もの人に手伝ってもらい、見送りすらしていただきました。
 帰途、避難施設裏の海岸部に降りて行き、津波の遡上高37.9mを記録したという小堀内漁港を見に行きました。1896年の明治三陸大津波の38.2メートルという記録に次ぐ高さでした(今回の最高記録は、同じ゙宮古市の重茂(おもえ)半島の38.9メートル)。
 小堀内漁港は、せり立った断崖に楔を打ち込んで出来たような、小さな漁港です。そこに大津波が襲い、斜面を駆け上がって漁師と消防団員を飲み込みました。死者2名、行方不明者7名。現地では、自衛隊員たちによる捜索活動が、続けられていました。その捜索活動を、3人の中高年の女性たちがじっと凝視し、見守っていました。行方不明者の身内の方たちです。その背後に、ひしゃげてしまった消防自動車が、無残な姿をさらしていました。37.9メートルの地点近くにたって漁港を見下ろすと、こんな高いところまで津波が遡上してきたのかと、ただただ驚くばかりです。捜索活動にあたっていた男性は、田老地区の被害はおそらく、あの防潮堤のお陰で、津波の襲来が何分間か遅くなったために、幾人かは助かったのではないかと、と推測しました。また彼は、福島の原発震災の成り行きを心配するとともに、放射能汚染のもとで不安な日々を送る福島の人びとに対して、深い同情の言葉を発しました。
 盛岡に帰り、友人の家でテレビ・ニュースをみていたら、宮古市田老の摂待地区で、水田除塩の実証実験が始まった、と伝えていました。消石灰と真水をまき、土の塩分濃度が基準値に下がるまで、2,3日おきに湛水と排水を繰り返すというものです。また、その後のニュースで、グリーンピア田老の敷地内に、仮設住宅の建設と合わせて仮説共同店舗の設置が決まり、田老の商工業者21人が出店を希望している、ということです。食料品店や散髪屋さん、靴屋さんに電気屋さん、食堂も予定されています。3.11から1ヶ月半がたち、田老地区にも復興への胎動が、始まりつつあるようです。

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