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2011年6月21日 (火)

日本人の反核・原発容認の歴史

  日本人の間に、原水爆禁止の声がひろがり、広範な国民運動として定着したのは、1954年3月1日の第五福竜丸事件がきっかけでした。この日、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁沖で、マグロ漁をしていた第五福竜丸が、アメリカの水爆実験による「死の灰」を被り、23人の乗組員が、放射能に被曝しました。また、マグロや雨水から高濃度の放射能が検出され、魚・野菜・飲み水の汚染も問題となって、日本国内は、放射能パニックのような状態となりました。

 こうした状況に、最も敏感に反応したのは、家庭の食生活を預かる主婦たちでした。安心した生活が送りたいという彼女たちは、原水爆禁止の署名活動に立ち上がりました。東京・杉並区の女性たちから始まったこの運動は、燎原の火のように全国に広がっていき、ついには3,000万筆を越える署名を獲得するにいたります。さらに、この活動は、世界各国に伝わって総計6億人の署名を得るとともに、翌年の第1回原水爆禁止世界大会(1955年)開催にむけて、大きな力となりました。(この第五福竜丸事件と原水禁署名活動については、NHK「その時歴史が動いた」『3,000万の署名 大国を揺るがす』(09/2放送)が、わかりよく丁寧に伝えています。福島原発事故後の反原発運動にとって、最も参考になる歴史のひとつだと思います。)
 この第五福竜丸事件に端を発した原水爆禁止運動の空前の盛り上がりは、アメリカ政府に大変深刻な衝撃を与えました。日本の反原水爆・反米感情の高まりは、アメリカ政府にとっては、東アジア反共の砦・日本の政情不安を意味し、原子力平和利用を梃子にした西側陣営の核同盟化戦略に、打撃を与えるものでした。アメリカの対日心理作戦の変更が、余儀なくされます。日本の反米・反原水爆の世論を、如何に反転させるか。このためCIAは、読売新聞社主・正力松太郎にアプローチします。親米・原子力容認の世論形成のための工作です。NHK制作「現代史スクープドキュメント『原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力政略~』(94年放送)と有馬哲夫著『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書08年発行)は、この間の事情を明らかにします。
 前者のNHKドキュメンタリーで、正力の代理人・柴田秀利(日テレ常務)が、身分を明かさない米国人・D.S.ワトソン(CIA要員)と交わした会話が、紹介されています。柴田は、原水爆反対をつぶすためには、原子力の平和利用を謳いあげ、日本人に希望を与えるしかない。このため、原子力の平和利用を大々的に宣伝していこう。これは、「毒をもって毒を制する」ということだ、と語っています。その宣伝戦に、販売数300万部(当時)の読売新聞と日本初の民間テレビ(日本テレビ)が、フルに活用されたのです。日本の原発導入のシナリオは、このようにして企図され、実践されていきました。
 有馬哲夫氏は上記の著書で、公開されたCIA機密文書等を読み解きながら、この宣伝戦に積極的にコミットした正力松太郎のネライを、明らかにしています。すなわち、「反原子力・反米世論」を鎮めたいアメリカ側に対して、正力の目的は、「これを踏まえたうえで、さらにアメリカからの動力炉の供与、または、それを購入するための借款を引き出すことだった。そのあとで日本に原子力発電所を建設し、商業発電を実現し、それを政治的実績として総理大臣の座を手に入れることが最終目標だった」のです。CIAと正力が連携した「原子力平和利用」の大々的なキャンペーンは、読売新聞と日本テレビを余すところなく駆使して展開され、日本人の心のなかに徐々に、原子力の平和利用を容認し、歓迎する空気を醸成しました。
 さて、こうした原子力平和利用を容認する日本人の感情と、3,000万筆を超える原水爆禁止署名を勝ち取った反核運動とは、どのように絡み合い、あるいは反発し合い、そして共存し続けたのでしょうか。ここに、第五福竜丸事件にあたり、戦後文学の旗手といわれた文学者たちが書いた、原子力に関する文章を引用します。まず、作家・野間 宏の文章から。
 「1954年3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われた。焼津の漁夫は死の灰をあび、皮膚をやかれ、肉体と魂を奪い去られようとしている。そして日本はたちまち死の灰と放射能にとりかこまれた。多くのマグロはすてられ、放射能はお茶、牛乳などにもふくまれていることが明らかにされた。・・・・・9月23日夕刻についに死の灰をおびて入院中の福竜丸の無電長久保山愛吉さんは、自分におそいかかる死の灰とのたたかいに全力をつくして、なくなった。人類はアメリカの原爆によって、広島長崎の多くの日本人を失い、また水爆によって、ひとりの日本人を失ったのである。日本の多くの心はこの一つの方向へむけられている。アラゴンは今年5月1日のメーデーの感想で死の灰をあびて病床にある日本の漁夫に深い心を寄せていたが、多くの外国人の心もまた、久保山愛吉の死に向けられたのである。」(『人類意識の発生』「文芸」54年12月、「日本の原爆文学15」所収、ほるぷ出版83年刊)
 上記引用の「・・・・・」には、1954年6月27日にソヴェトが、原子力発電所を完成したことを、記しています。そして別稿に、その原子力発電について、次のように書いています。
 「この6月27日はビキニ水爆実験の日1954年3月1日、第五福竜丸の無電長久保山愛吉さんが死の灰にふれてなくなった日、9月23日とともに忘れることの出来ない日である。しかしこの日は3月1日、9月23日とは全く逆に、人類の立場に光と無限の力をもたらした日である。原子力はこの日はっきりと人類を破滅にみちびくものではなく、人類に無限の幸福をもたらせるものとしてみとめられたといえる。」(『人類の立場』「世界」55年1月、「日本の原爆文学15」所収)
 もうひとり紹介しておきたい。文芸評論家・小田切秀雄稿『原子力問題と文学』(「改造」54年12月)から。この文章は、前半は、広島・長崎を題材とした作品(原爆文学)を論じながら、原子力の破壊的な面について書きますが、後半は、原子力の「建設的なすばらしい側面」につい、熱く語っています。その後半の1節。
 「原子力問題は、こんにちのわたしたち日本人にはもっぱら原水爆戦争の危機として現れ、その破壊的な使用にたいするたたかいに関心が集中するのは当然のことであるが、原子力の解放そのものは、もしそれが平和的に利用されるなら、人類の富は急激に増大し日本の場合にもこの狭い国土や貧弱な資源の制約は急速の打破される―こういうすばらしい可能性をもっている。・・・・・かつて産業革命によって生産力が急激に増大したように、原子力による新しい産業革命が発展すれば、二十世紀後半の人類の富は従来想像することもできなかったような豊富さに達するだろう。」
 「ビキニの灰のあと、生物的恐怖を意識の下にやきつけた日本の子供たちのやわらかい心に、原子力の平和的な利用のこのすばらしい夢を語りかけ、その夢を水爆による破壊から守って実際にこの地上に実現してゆくべく働くことができるなら、それは人間にとって最も輝かしい自由ということになるだろう。」
 野間宏と小田切秀雄はともに、米ソ冷戦下の厳しい国際情勢のなかで、ソヴィエト社会主義革命に人類社会の未来を読み取り、そのなかの原子力平和利用に、極端なまでに楽観的に、生産力増大の可能性を見い出していました。『暗い絵』や『青年の環』、あるいは狭山事件に関する論文などを、かつて読んだ野間宏の読者の一人としては、ソヴィエト社会主義と原子力平和利用に対する野間の手放しの礼賛振りに、驚かされます。およそ野間を形容する言葉としてはふさわしくない「イノセント(純粋なさま、無邪気なさま)」という言葉が、口の端にもれそうです。ただここでは、原水爆禁止運動が全国津々浦々で広まりつつあった時に、左派の論客だった人びとが、原子力平和利用を声高に発言していたことを、書いておくに留めたい。反共右派の正力をはじめ、当時の政財界の人びとと軌を一にして、原子力平和利用=原発の明るい未来と可能性を、讃歌していたのです。
 以上は、日本の反核・原発容認の、歴史的事実のひとつです。

 

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