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2011年6月16日 (木)

ヒロシマ・ナガサキ、そして今また、フクシマ

   昨年10月に広島の平和記念資料館を訪れたというドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベック氏は、福島原発事故によせて次のように問いかけています。「私にとって今も答えが出ないのは、核兵器のまったき非人間性を倦むことなく告発し続けてきた日本が、なぜ同時に原子力の開発をためらうことなく決断し得たのか、という問いである」(ベック稿『福島、あるいは世界リスク社会における日本の未来』「世界」7月号)。

  ベック氏の云う「核兵器のまったき非人間性を倦むことなく告発し続けてきた日本」とは、何を、あるいは、誰を指すのでしょうか? それが、日本政府を指していないことは、あまりにも明白です。歴代の首相が、8月の広島・長崎原爆慰霊祭へ出席しょうが、1970年以降の自民党政権が、非核三原則の外交・安保政策を内外に打ち出そうとも、日本がアメリカの核の傘のもとにあり、核抑止論に依存している限り、日本政府が、「核兵器のまったき非人間性」を告発するどころか、そのように認識すらしていなかったといわざるをえません。今の民主党政権も、普天間問題で明らかになったように、核抑止論の立場にとっていることは、自公政権と同じです。
 では、ベック氏の云う「日本」を、「日本社会」あるいは「日本の人びと」と読み替えてみます。その中心には、広島・長崎で被爆した人びとや第五福竜丸で死の灰を被った人びとがいます。また、その周りには、こうした被爆者の近くに寄り添って、かれらを支援してきた人びとがいます。さらにその外周には、8.6や8.9の原爆の日に、原爆慰霊祭の会場やその様子をライブ放送するテレビの前で、亡くなった被爆者に合掌する日本に住む多くの人々がいます。そして、第五福竜丸事件のあと、東京・杉並の女性たちから始まった原水爆禁止運動に参加した人びとと、その後60年近く、この運動を引き継ぎ、発展させようとしてきた沢山の人びとがいるのです。こうした被爆者を中心において同心円状に膨れ上がってきた膨大な数の人びとこそが、ベック氏の云う「核兵器のまったき非人間性を倦むことなく告発し続けてきた日本」だといえるでしょう。そして、ベック氏は、問い掛けます。その日本が、「なぜ同時に原子力の開発をためらうことなく決断し得たのか」。
 例えば、私のささやかな「反核」運動-1980年代はじめの世界的な反核運動のうねりのなかで参加した大阪御堂筋での「反トマホーク」デモ、80年代から90年代にかけて参加しつづけた、夏の群馬の田舎道を歩いた広島に向けての「平和行進」、そして核廃絶を求める署名活動-の体験を振り返ってみれば、そこで訴えたのは「核兵器廃絶」であり、原子力の軍事利用反対であって、「原子力の平和利用」つまり原子力発電に対する反対の意志は、入っていませんでした。スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故に際しては、原発のもっている危険性と漏れ出した放射能にたいする不安感を抱きましたが、それを切っ掛けに、私の「反核」意志のなかに、核兵器廃絶とともに原発反対が入ってくることはありませんでした。核兵器と原発は、私の意識の中では、カテゴリーを別にするものでした。こうした意識はおそらく、日本の反核運動のなかで、さほど特殊なものではなく一般的なものではなかったでしょうか。3.11は、こうした「反核」意識の一面性やあいまいさを痛撃し、その見直しを強く迫るものでした。
 グーグルで「反核運動」と「原発」のふたつの用語で検索すると、「日本の反核運動は原発を容認してきた」という記事が、最初に出てきます(広島市立大学平和研究所教授 田中利幸稿『原爆と「原子力エネルギーの平和利用」』(「アジア太平洋ジャーナル;ジャパンフォーカス」掲載)。このなかで田中氏は、「被爆者と核兵器に反対する活動家たちの多くは、これまで、原子力エネルギーの問題に無関心できている」と指摘し、その具体的な事例として、広島から80キロ離れた瀬戸内海の美しい漁村上関の原発建設反対運動に対して、被爆者団体は何ら支援することはなく、強固な核廃絶論者である広島市長も、これまで支持してこなかった、と紹介しています。反核の象徴的な存在であるヒロシマが、「原子力の平和利用を容認」している。何故に、こうなったのか。田中氏は別の論文で、「広島は「原子力平和利用」宣伝のターゲットであった」ことを、1958年に開催された「広島復興大博覧会」のなかに見い出しています(田中利幸稿『「原子力平和利用」と広島」』(「アジア太平洋ジャーナル;ジャパンフォーカス」掲載)。この博覧会は、「原爆による潰滅からの都市復興を祝い且つさらなる発展をめざして」開催されたものです。多くの展示館の中で最も人気が高かったのが、「史上初のソ連の人工衛星を展示した宇宙探検館と原子力科学館」でした。その原子力科学館の目的は、「「原子」「放射能」「アイソトープ」等原子科学の基礎知識を平易に解説し、人口四十万の雄都広島市を一瞬にして廃墟と化した原子力の驚異的破壊力を実在の資料によって示すとともに、その平和利用の姿を世界各国から集めた貴重な資料により産業、農業、医学などの各分野にいかに応用され人類文化の発展に寄与しているかを示す」ことだと、概説書から説明しています。そして田中氏は、『広島復興大博覧会誌』に記された「人類の多年の夢が、今や現実のものとなってくるかと思えば本当に嬉しい限りだ」「今や日進月歩の発展を遂げつつある世界の原子力科学の水準に一足でも遅れないようにわが国も努力をつづける必要がある」という主催者の歓喜と決意の声を伝え、「原子力発電への画期的構想」や原子力平和利用の喧伝映画もあずかって、「かくしてこの博覧会を訪れた総数91万7千人という人たちが、「原子力平和利用」の重要さを徹底的に頭に叩き込まれ」たと指摘しています。この論文の最後に引用されている当時の広島市長の言葉は、その後の多くの日本人と反核運動の原子力思想を、端的に現したものだと思います。「原子力時代を迎えようとしている時、広島の教訓を再確認し、原子力の在り方を再検討して、核兵器の使用を断固禁止し、原子力をして、平和利用一本に絞ることの如何に緊要切実であるかを痛感」した。核兵器禁止と原子力の平和利用、つまり反核と原発が、見事までに共存したのです。おそらく、この1950年代後半の広島の空気がそのまま、その後の日本の原水禁運動-反核運動に繋がって来たのだと思います。ドイツの反核運動が、反原発運動を内包しながら進んできたのとは、対照的です。
 しかし以上は、ベック氏によって問い掛けられた事実を、確認したにとどまります。ベック氏の「何故?」という疑問に答えたことにはなりません。「核兵器の非人間性」を告発するという人類の普遍的価値にもとずく行動と、「原子力の開発」に突き進むという現実的実利的行動とが、同じに日本人の中に矛盾することなく、あるいは矛盾を自覚することなく共存してきたのです。そして福島原発事故によって、現実的実利的であったはずの原子力発電が、経済的にも実利性を失い、社会的にも政治的にも、その存立基盤が失われようとしています。多数の現場作業員と周辺住民の被曝被害と難民化、止まることのない大地と空気と大洋の放射能汚染、日本と世界の人びとに与え続けている不安と恐怖、虫と魚と獣と植物たち生きとし生きるすべての生命の存続を危機に曝しています。こうした未曾有の犠牲を待たなければ、脱原発への一歩を踏み出せなかった日本社会のもっている根源的弱点を、私たちは見つめ直すべきではないでしょうか。しかも現実には、その脱原発への一歩すら、日本社会が踏み出せるのか否か、「不透明」という嫌な言葉でしか表現できない忌々しさを、つくづく感じます。

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コメント

従順な日本人は、核爆弾を投下されてからというものは、すべてが委縮してしまった。それが戦後の日本人の魂を形成してきた。いまだにアメリカに対しては何も批判できない、何も言えない政府を形成してきている基礎となってきた。

なぜ原爆被災国の日本が、原発と言う存在に手を出したのか?これは歴史の中で、客観的にみていく必要がある。その始まりを示す米国の公文書で明らかとなっている。そのきっかけとは「第五福竜丸」の乗組員が、太平洋ビキニ環礁での米国の核実験で被爆したことが契機となっている。

この公文書の中で、アメリカは、「無知」な日本人への科学技術協力が「最善の治療法」になるとして、原子力協力の枠組みや日本人科学者の米施設への視察受け入れなど、米側が「原子力の平和利用」をテコに日本世論の懐柔を図ったり、被爆国が原発導入を進めるに至った源流が浮かび上がっている。

こうやって、アメリカは広島に投下した原子爆弾や太平洋での核実験に対するアレルギーを抹消していく政策を日本に断行しながら、原子力の平和利用という、今日の原発導入の基礎を作ってきている。

この政策に乗っかって先導したのが元首相の中曽根康弘である。これは政治家だけにとどまらず、ほとんどすべての日本の知識人などが、この路線に乗っかり、「原子力の平和利用」という核路線を信じて疑わなかったことーこれが反原爆と反原発運動が分岐した始まりとなったものと思われる。 これがウルリッヒ・ベック氏の問いかけへの回答である。

50年代米公文書:「日本は核に無知 原子力協力で治療」
 2011.7,24 (朝日コム)

1954年3月1日に太平洋ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で静岡の漁船「第五福竜丸」が被ばくし、原水爆禁止が国民運動となる中、危機感を深めた当時のアイゼンハワー米政権が日本の西側陣営からの離反を憂慮、日本人の反核・嫌米感情を封じ込めようと、原子力技術協力を加速させた経緯が23日、米公文書から明らかになった。

共同通信が米国立公文書館で収集した各種解禁文書は、核に「無知」な日本人への科学技術協力が「最善の治療法」になるとして、原子力協力の枠組みや日本人科学者の米施設への視察受け入れを打ち出す過程を明記。米側が「原子力の平和利用」をテコに日本世論の懐柔を図り、被爆国が原発導入を進めるに至った源流が浮かび上がった。

アイゼンハワー大統領は54年5月26日にダレス国務長官に覚書を送り、被ばく事件後の「日本の状況を懸念している」と表明。「日本での米国の利益」を増進する方策を提示するよう求めた。

 これを受け、国務省極東局は大統領あて極秘覚書で「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析。打開策として(1)被ばく乗組員への賠償(2)米側からの「放射能に関する情報提供」(3)吉田茂首相への遺憾表明--を挙げ、「放射能」に関する日米交流が「日本人の(核への)感情や無知に対する最善の治療法」になると指摘した。

 同年10月19日の国務省の秘密メモ「ビキニ事件と核問題」は、事件を「戦後最大の日米間の緊張要因」と表現し「米国への憤りと核兵器への恐怖心が高まった」と解説。「原子力・核エネルギーが根本から破壊的だとする日本人の根強い観念」を取り除く狙いで「原子力の平和利用を進展させる2国間、多国間の取り組みに日本を早期に参画させるよう努めるべきだ」と将来の原子炉提供の可能性を論じている。(共同)2011.7月24日

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