第五福竜丸展示館を訪ねる
先週の火曜日、東京・夢の島にある都立・第五福竜丸展示館を訪ねました。道路と鉄道と倉庫からなる人工の空間に、広大な公園緑地があり、そのなかの木立に囲まれて、展示館がありました。隣りのヨットハーバーから、ここが「島」であることを納得します。
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展示館には、第五福竜丸が、すっぽりと収まっていました。被爆後、船名を変えて東京水産大学の練習船となり、その後、老朽化のため廃船となって、夢の島ちかくの埋立地に放棄されていた第五福竜丸は、ここに安住の地を見い出したのです。前回の記事で紹介した大江健三郎さんと大石又七さんの対談は、この漁船のデッキで行われたのでした。
展示館に入ってすぐのところに、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験のとき降った白い細かな粒子が、ビンのなかに納められていました。高濃度の放射能を帯びた珊瑚礁のかけらです。これが死の灰となって、第五福竜丸の乗組員やマーシャル諸島島民のうえに降り注ぎ、多数の被爆者を生み出したのです。こうした人びとの被害の様子が、壁に張られたパネルに、表示されています。
展示品やパネル表示のなかから、関心を引いた2,3項目について、書き留めておきたい。
まず、マーシャル諸島の人びとについて。ビキニ環礁から180㎞離れて被爆したロンゲ・ラップ島の(前回大石又七さんが語っていた)人びとは、3年後に故郷の島に戻りましたが、その後身体の異常が続発し、1985年に再び、島を離れました。また、ビキニ島の人びとは、米国による放射能除去作業後、16年後の1970年に帰島しましたが、強い放射能が検出され、1978年に再び、別の島に移住させられました。いずれも、島に戻された人びとから、甲状腺異常とガン、死産や流産、生まれてきた子供の心臓や内臓の病気、成長のストップ、白血病による死亡などが、次々と発生しました。これらの島の人びとは、被爆-離島-帰島-再離島を繰り返さざるを得なかったのです。放射能被害は、実験直後の被爆とともに、帰島後の生活での被爆が重なって、起こったものでした。米国の専門家たちの「帰島OK」の判断のもとで起こった、取り返しのつかない悲劇です。
次に、日本国内の汚染マグロについて。第五福竜丸が被爆した1954年3月から12月まで、汚染マグロを水揚げし廃棄した漁船は856隻、廃棄されたマグロは486トンに及びました。そして、その年の秋から冬にかけて、日本の沿岸に汚染された海流がたどりつき、汚染された魚が獲れる様になりましたが、政府・農林省は魚の検査を、12月で打ち切ってしまいました。背後に、放射能汚染を隠蔽したい米国の意志を強く感じますが、日本の消費者・国民を放射能被曝の危険にさらした日本政府の無責任さに、驚愕します。
1954年9月23日、第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉さんが、亡くなりました。久保山さんの被爆から闘病生活をへて死に至る半年間は、日本の多くの人びとが、彼のことを心から心配していたようです。当時の新聞記事の切り抜きや久保山さん宛ての手紙から、そのことをうかがい知ることが出来ます。これらの手紙が10数通、展示館のガラス・ケースに、展示されていました。
「久保山さん、はやくなおってちょうだいね」(静岡県・小2女児)、「久保山さん生き抜いてください」(秋田県・男子生徒)は、闘病中の久保山さんを見舞う手紙です。また、死後には、家族に対して、哀悼の気持ちを伝える手紙が、きています。児童や生徒の手紙が多いところから、学校の授業で「第五福竜丸」について学習し、久保山さんの被爆のことを知って、手紙を書いたものと想像します。福島原発事故で被曝した東電社員や下請労働者について、私たちは、まず固有名詞を知らない、現在の状況についても知らない、症状の軽重も知らない、そして、彼らに対して全国から見舞いの手紙が届いているということは、想像すらできない。この違いは、どこから来るのだろう、などと考えながらこれらの手紙を読んでいたら、次のような手紙にでくわしました。
「九年前に広島に原爆が落とされて以来、日本人は原子兵器の犠牲になってきました。このままでは、尊い人命が奪われていくばかりです。原子力をこのような戦争に使うよりも、もっと平和的な事業に使ったら、どのようによい世界になるでしょう。僕も郵便友の会の一員として原子力の平和利用を心から望んでいます。いや、そうなくてはならないことです。ではここで力をおとさずに、お体に気をつけて生きぬいて下さい。さようなら。
御遺族様 ○○ ○(差出人の氏名)」
手紙の前段には、久保山さんの被爆・入院・死亡の経過が書かれ、その上で、遺族に対する弔意の文面となっています。そして、引用の文章がきます。放射能被爆による犠牲者の遺族に対して、原子力の平和利用を訴えた手紙なのです。数回前の記事で、野間宏や小田切秀雄が、第五福竜丸事件を受けた文章に、やはり原子力の平和利用を訴えていたのと同一の態度です。50年代後半の時代感覚では、反核(原水爆禁止)と原子力の平和利用は、両立していたのだと、この手紙からも知ることができます。
初めての第五福竜丸展示館訪問で、以上のようなことを学びました。
夜の飲み会まで時間があったので、渋谷に岡本太郎作の大壁画『明日の神話』(5.5m×30m、1969年完成)を観にいきました。当初、メキシコ・シティのホテルの壁画として制作されたこの作品は、依頼者の経済状況の悪化によって行方不明となり、2003年にメキシコ・シティ郊外の倉庫で、発見されたものです。日本に帰国後修復の上、ここ京王井の頭線渋谷駅の連絡通路に、設置されました。岡本太郎は、大壁画『明日の神話』のテーマに、第五福竜丸のビキニ水爆実験による被爆体験を取り上げました。画面中央には、水爆炸裂の瞬間、一瞬にして髑髏と化した人間が、赤い炎に包まれています。マグロを引く漁船や23人の漁師たちの姿は、これが第五福竜丸であることを、想像させます。岡本の描いた『明日の神話』に登場しているヒトとモノたちのもつ寓意と、作品全体の発するメッセージは、今後、この場で、再度、再再度と見ていくなかで、発見に努めたい。
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