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2011年7月 4日 (月)

大江健三郎・大石又七 核をめぐる対話

P1140918_1_2  3.11直後の3月15日、大江健三郎さんは、朝日新聞連載中の『定義集』に、「【水爆経験を語り続けている人】抑止論の欺瞞、明確にあばく」というエッセイを寄せて、大石又七さんのことを書きました。そのエッセイの最後に、都立第五福竜丸展示館に、大石さんの話を聞きに行く、と記されていました。

 そして5月9日、大江さんが東京・夢の島の第五福竜丸展示館を訪ね、大石さんとのはじめての対話が、実現しました。昨晩放送されたNHK・ETV特集『大江健三郎・大石又七 核をめぐる対話』は、この日の対談を中心に、広島・長崎・ビキニそして福島と続いてしまった日本の被ばくの歴史を丁寧に、振り返っています。
 大石又七さんは、1954年3月1日にビキニ環礁で被爆した、第五福竜丸の23人の乗組員の一人で、当時20歳の青年でした。1歳年下の大江さんは、大学正門前のビキニ水爆実験を批判する演説で、自分の境遇と似た大石さんのことを知りました。それから57年たった今年5月、大江さんの希望がかなって二人は、東京・夢の島の都立第五福竜丸展示館内で、はじめて会いました。
P1140923_1_2 二人の共通のテーマについて、次のようなナレーションが入ります。「日本人は、その被爆体験を、未来にひらかれた思想に高めることが、出来たでしょうか」。福島原発事故に直面している今、まさにこうした問題意識を共有した二人が、静かに、そして時に熱く、核について語り合いました。
 福島原発事故について、大石さんはおおよそ、つぎのように語りました。「私たちがビキニで体験した恐怖を今、福島の人たちが体験している。ビキニ事件のとき、放射能と核兵器の怖さを世の中に知らせるべきであったが、それが隠されてきた。その結果が、福島の原発事故につながった。」
 同じく、福島について、大江さんは語ります。「人類ははたして、核と共存できるのか。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・チェルノブイリそしてフクシマ、これらは被害者から見れば、道がつながっている。」
 核抑止論について、大江さんが話します。「抑止」は英語で、deter=恐怖を起こさせ思いとどまらせる、という意味、つまり暴力で相手を押さえ込む、ということだが、日本語の「抑止」には、どこか平和的なイメージがある。従って「核抑止」の本来の意味は、強国の核暴力によって、弱者の平和で健康な人間らしい生活を確保するのではなく、相手を暴力で脅かして縮めこませるものだ。
P1140928_1 大石さんは、被爆後1年半ほどで、東京へいきます。被爆者と家族に対する差別と偏見、米国からの見舞金に対する世間の妬みの声に抗しきれず故郷を後にしたのです。東京でクリーニング店を営みながら、被爆については堅く口を閉ざしますが、病院で隣にいた久保山愛吉さんの苦しみを思い出し、病気が発症する不安に駆られます。やがて結婚しますが、妻には「被爆者と知った上で結婚したのか」の質問が出来なかったと述懐します。その妻は、不安で迷ったけれど、結婚したら「夫は優しかったから」と笑顔で答えました。1983年、その大石さんが、長い沈黙を破って、被爆体験を語りはじめました。そのきっかけについて質問した大江さんに対して、大石さんは、次ぎのように答えました。
 仲間が、ガンを発症し、次々に死んでいった。何でこんな惨めな死があるのか。自らも肝臓ガンに罹り、子供も死産した。理不尽なことが、半世紀の間にたまってきた。私たちの被爆体験の裏に核実験があり、その核実験のことが隠されたために、自分たちも隠されてきた、ということが分ってきた。もう黙っていられない。怒りが込み上げてきた。被爆体験を語ることや書くことで、広く知ってもらいたい。一度話してみると、それがいかに、世の中にとって大事なことだと分ってきた。黙っていたら、同じことが起こると思った。
 こうした大石さんに対して、大江さんは、今後も是非、語り続けて欲しいと希望します。その時、大江さんは、自分の母親の言葉を大石さんに贈ります。それは戦後、憲法に「平和を希求する」と書いた人は、どのような人かと質問した時、大江さんのお母さんが答えたという言葉です。即ち、「真面目で悲しい響きのする言葉を云う人がいい人です。平和を希求すると書いた人は、戦争で自分の大切な人を亡くした人の言葉だと思う。」
P1140925_1 2004年、大石さんは、マーシャル諸島に元ロンゲ・ラップ村長ジョン・アンジャインを訪ねました。元ロンゲ・ラップ島民は、大石さんたちと同様に、ビキニ環礁での米国の水爆実験で、死の灰を被って被爆した人たちです。現在、汚染された島を離れて、別の土地で暮らしています。元村長が語ります。「私たちが島を去ってから長い年月が経ってしまいました。愛する故郷から切り離されてしまったようです。私たちが被爆してから、今年で丁度、50年が経ちました。被爆の問題は、未だ解決せず、島の復旧のため、今も闘っています。」
 大石さんは、元村長の見せてくれた村民名簿を見つめ、悲しい顔になりました。そこには、甲状腺ガンに罹った人と死亡した人の名前に、印がつけられていました。そして名簿の中に、幼時に被爆し19歳で亡くなった元村長の息子の名前を見出し、共に涙を流します。
 対談の最後に、大石さんが大江さんに質問しました。「戦争指導者が責任をとらなかったこと、原発推進者が責任をとろうとしないこと、このことをどのように考えるか」。大江さんの答えは、「あいまい」であり続けている日本に由来する、というものでした。責任を問う方も、問われる方も、「あいまい」なことによってともに安心する、と云う訳です。対談では必ずしも、大江さんの云うところが、それこそやや「あいまい」で、わかりづらい。そこで、「世界」5月号に掲載されたフランスのル・モンド紙への寄稿文(記者質問への回答)を、以下に引用します。

 「・・・核とはどういうものかという危機の国民的実感において、これまでのあいまいな日本が続くということはありえません。日本の現代史は、明確に新局面にいたっています。それがいかに苦しいものであれ、未来にかけて意義があるはずだと、私は広島・長崎の死者たち、ビキニ環礁での被爆で長く苦しみ続けている(亡くなられもした)人たちの示す人間的な威厳に学んできた者として思います。この現実の事故をムダにせず近い将来の大災害を防ぎうるかどうかは、私ら同じ核の危機のなかに生きて行く者らみなの、あいまいでない覚悟にかかっています。」 (大江健三郎稿『私らは犠牲者に見つめられている』「世界」5月号から。引用文のアンダーラインは、文字上の「、」マークの替わり。) 

 NHK・ETV特集『大江健三郎・大石又七 核をめぐる対話』は、おおよそ以上のような内容でした。これらは、福島原発事故にあたっての、大江さんと大石さんの日本人向けメッセージであることは云うまでもありませんが、同時に、NHK・ETV制作陣の私たち視聴者に対する熱いメッセージでもあると思います。福島原発事故に対する同スタッフの「真面目さ」に、他の番組も含めて、敬意を表したい。
 近いうちに、大石さんの著書を読み、かつ第五福竜丸展示館を訪ねてみようと思います。(引用した会話については、必ずしも発言のままではありません。写真は同番組映像から。)    

 

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