« 岩手県または達増拓也知事からのメッセージ | トップページ | 福島を直視したジャーナリストの眼-その2- »

2011年8月26日 (金)

福島を直視したジャーナリストの眼-その1-

 東日本大震災の翌日、6人の男たちが、東京を発って福島第一原発に向かいました。豊田直巳・綿井健陽・広河隆一・森住卓・野田雅也・山本宗輔。いずれも、チェルノブイリ、パレスチナ、イラクなど、世界の戦場や難民キャンプ、あるいは被災地などから、貴重な写真や映像を送りつづけてきた、日本が世界に誇るフリーランスのフォトジャーナリストとビデオジャーナリストたちです。各メディアが、記者の安全のため40キロ圏、50キロ圏に近づかないように指示を出していたとき、彼らは、可能な限り原発事故の現場近くに入り、現地の生の声と姿をとらえ、克明な報告をしました。

  豊田直巳著『フォト・ルポルタージュ 福島 原発震災のまち』(岩波ブックレット 11/8/10刊)は、このときの6人のジャーナリストたちの取材記録のひとつです。このブックレットは、41枚のカラー写真とルポルタージュから構成された、1時間少しで読める小冊子です。大震災による被災地の写真は数葉ありますが、特に目を引いたのは、半分近くあった飯舘村の写真です。この村は、原発から30~40キロの距離にある農山村で、地震の大きな被害は受けませんでした。田畑には菜の花が咲き誇り、山は新緑と山桜の開花が重なって、村はのどかで美しい。野山で遊ぶ子供たちも、隣町に開設された学校に通う子供たちも、みんなマスクをしていますが、元気そうです。餌をやり搾乳する酪農家たち。こうした写真は、日常生活を送る飯舘村の人びとと景色を撮ったもの、といわれればそのまま納得しそうです。しかし、被曝検査をうける女児、放射能汚染調査する大学研究者、原乳を捨て続ける酪農家、小松菜を草駆り機で駆り落とす農家、頭まですっぽり被った白い防御服の男たち、これらの写真は、この村にただならぬ異常事態が発生していることを、教えてくれます。福島原発事故による放射能の高濃度汚染です。京大の今中氏の推計では、同村の土壌のセシウムは、約326万ベクレル/㎡でした。「チェルノブイリでは、55万ベクレル/㎡以上のセシウムが検出された地域は強制移住の対象となっている」と豊田氏は記しています。前者の「日常生活」は、こうした汚染状況の下でのものです。政府が飯舘村全域を計画的避難区域に指定したのは4月中旬で、それから1ヶ月ほどで、住民は村から立ち退くように指示されました。多くの飯舘村村民は、80日前後のあいだ、高濃度の放射能に被曝していたといえます。
 原発事故直後から度々取材に福島を訪れた豊田氏は、福島の地に「見えない戦場」をイメージしました。
 「私はこの日本にその「戦場」が出現するとは思っても見なかった。だが、そうした想像力に欠けていた私の前に、今、確かに「見えない戦場」が広がっていた。ここでは泣き叫ぶ声も聞こえなければ、硝煙の臭いや血の臭いを嗅ぐこともない。しかも風景は放射能に汚染される以前と変わらない。しかし・・・・・辺りに漂い、あるいは地面に沈着し、そして体内に入り込んでしまった放射性セシウムやヨウ素から発せられる放射能は、私たちの体を射抜き、また体の内部から細胞を攻撃し続けているのだ。そして、たとえ「直ちに」症状が出なかったとしても、放射能は私たちの体を確実に蝕んでいく」。
 豊田氏は、イラク・パレスチナ・サラエボなどの戦場を歩いてきたフォトジャーナリストです。そしてイラク取材で初めて、ガイガーカウンターで放射能測定をした、といいます。1991年の湾岸戦争で、米英軍が劣化ウラン弾を使用したため、イラクの子供たちや米英軍兵士たちに白血病が多発したのです。福島を取材しつづけた豊田氏の書いたこの1節を、大袈裟だといって退けてはいけない。現場を見たジャーナリストの警告を、真摯に受け止めなければならない。目と耳を塞いではならない。これが、今、福島をはじめ日本で起こっている事実なのだから。(この項つづく)

« 岩手県または達増拓也知事からのメッセージ | トップページ | 福島を直視したジャーナリストの眼-その2- »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 福島を直視したジャーナリストの眼-その1-:

« 岩手県または達増拓也知事からのメッセージ | トップページ | 福島を直視したジャーナリストの眼-その2- »