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2011年8月 8日 (月)

原民喜『夏の花』と大田洋子『屍の街』

 広島原爆の日の一昨日、終日、原民喜の『夏の花』と大田洋子の『屍の街』を読みました。『夏の花』は20数年ぶりの再読ですが、大田洋子の作品は、『屍の街』を含め今回、初めて読みました。これらは、「原爆文学」の出発点となり、しかも、その最も代表的な作品とされてきました。3..11フクシマ原発事故は、日本社会がばじめて、みずから加害者となって被曝者を生み出し続けている、と云う意味で、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニとは異質な体験ですが、被害者が、日本社会を構成する人びとであるという意味では、過去の被爆体験と重なり合います。ヒロシマ・ナガサキ・ビキニの被爆者たちの発する現代へのメッセージに、耳を傾けたい。

 原民喜も大田洋子も、東京から郷里の広島に疎開していたとき、被爆しました。1945年8月6日8時15分、原は、トイレにいたため大きな外傷を受けることなく、一命をとりとめました。「今、ふと己れが生きてゐることと、その意味が、はっと私を弾いた。このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた」。その時、大田洋子は、二階の蚊帳のなかで寝ていて、頭部に出血をともなう外傷を受けますが、やはり一命をとりとめました。「背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果たしてから、死にたいと思った」。二人はともに、作家としての強い責任感を自覚して、被爆直後の広島の街と人びとの惨状を、描きました。
 先に読んだ『黒い雨』の時と同様に、机一杯に1万5千分の一の広島市内の地図をひろげて、二つの作品を読んでいきました。原も大田も、被爆した広島の多くの人びとがそうであったように、原爆の爆風や熱波によって倒壊し火災の迫った自宅を離れ、燃えさかる街なかを逃げ惑い、安全な場所を求めて移動します。そしてやっと、河原へ避難し、そこで野宿します。大田洋子は、河原で三晩、野宿しました。数日たって、縁者を頼って、市街地を離れ、郊外の農村へと逃れました。こうした逃避行としての移動が、この二つの作品の基本スタイルといえます。だから、どうしても移動経路をたどるため、地図が必要です。こうして地図をたどっていて、原民喜と大田洋子の被爆したそれぞれの住宅が、爆心地から2キロ圏内にあって、双方の住宅の距離は、1キロ程度の近所であったことを、知りました。縮景園の北と南です。野宿した場所も、京橋川の河原で、ともに対岸の饒津(にぎつ)公園の方向をみています。二人は戦後、夫々の作品を通してはじめて、相手を知ることになりますが、この時は勿論、お互いに知りませんでした。二人の運命の不思議を感じます。
 さて、被爆直後の広島について、原民喜は、次ぎのように描きました。
  ギラギラノ破片ヤ
  灰白色ノ燃エガラガ
  ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ
  アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
  スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
  パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
  テンプクシタ電車ノワキノ
  馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
  ブスブストケムル電線ノニホヒ
 また大田洋子は、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」というステレオ・タイプの表現を排し、「人も草木も一度に皆死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった」と書き、そしてある一節に「街は死体の襤褸筵(ぼろむしろ)」と表題をつけました。
 原も大田も、致命的な怪我はしませんでしたが、被爆直後の爆心地近くを、逃げ惑うていました。高濃度の放射線に曝された筈です。原は自分の心身の変調を、次のように書いています。「私は左側の眼の隅に異常な現象の生ずるのを意識するようになった。ここへ移ってから、四五日目のことだが、日盛の路を歩いてゐると左の眼の隅に羽虫か何か、ふわりと光るものを感じた。光線の反射かと思ったが、日陰を歩いて行っても、時々光るものは目に映じた。・・・あの時の驚愕がやはり神経に響いてゐるのであろうか・・・」。一方大田は、被爆から40数日たって、健康が回復し始めたかと思う頃、いいようもない恐怖に脅えはじめます。「雨の音が急にはげしくなった夜中など、今にも青い光におおわれ、寝ている家屋が音もなく崩れるような感覚に囚われて、飛び起きては天井を見たりした。こんなに生々しい感覚がかえって来ても、それでも人々のあとからおくれて死ぬのだろうかと思った」。この頃は、放射能に対する恐怖というより、被爆した瞬時の恐怖感が、二人を苦しめつづけたのです。
 大田洋子は、広島の街を「人間の眼と作家の眼」の二つの眼で、見つづけます。それは、街のなかの惨状だけではなく、避難先での人々のさまざまな姿をも、凝視しました。道端の防空壕で、若い父親が、少女を看取っていました。娘に、芝居の巡礼お鶴に似た可憐ないでたちをさせた若い父親に、大田は涙します。避難の途中、郊外の見知らぬ家に泊めてもらい、罹災後はじめて茶をよばれ食事まで世話になります。翌日、親切への礼としてお金を置いてきましたが、無理に返されたことを、記しています。バスの待合所で、全身に血と膿のしみ出した包帯をした夫と二人の子どもを連れた妻の会話に、耳を傾けます。山の奥から訪ねてくれた兄の後姿を見、行き違いとなったことを知ります。再び広島の街に戻らなければならない。夫婦は共に、相手をかばい、自分が広島へ戻ろうと譲らない。男も女も、うっすらと涙を浮かべている。ここには、原爆被爆という不条理で非日常的な世界に放り出された人びとのなかに、日常的な礼儀や夫婦の愛情が、何ら毀損していなかったことを発見します。しかし大田の眼は、権力あるものやその手先の者に対して、極めて厳しい観察を忘れていません。広島駅からの汽車には(橋や鉄道が壊滅的な被害を受けなかったことを、初めて知りました)、罹災者や負傷者が折り重なるように、通路を塞いでいます。「生きたまま押しつぶされたような人々は・・・沈んだ様子で押し黙り・・・痴呆状態をあらわに見せて、呼吸も充分にはしていない恰好をしている。・・・そしてほかの土地から来たらしい青年将校の一群は、白い手袋の手を例の板の上に重ね、冷ややかな態度で、重症の罹災者たちに坐席をゆずることもしなかつた」。東大研究班が9月2日になってやっと来たこと、滞在期間は1週間程度であったこと、心理学者も立派な僧侶も来なかったこと、良心的でかしこい食料商人も来て欲しかったこと、こうしたことに対して、大田洋子は怒ります。「これだけのことが出来ないことが日本的とも云える。日本人は敏捷ではないのである。血のめぐりが悪く情熱もなかった。・・・ひとつの都会の人口のほとんど半分以上が、一日に死んだかと思われるほどの出来事に対し、またそれが戦争によるものだということに対して当局の頭脳はあまりに貧しすぎた」。
 この年の秋、広島地方は、台風と豪雨に襲われました。原民喜は、避難先の農村で、堤防決壊を経験し、「戦争に負けると、こんなことになるのでせうか」との農家の主婦の嘆息を書き留めています。そして、大田洋子は、『屍の街』の最後に、次ぎの文章を書いて鉛筆を置きました。
 「囂々(ごうごう)として掻き鳴らされる日本人飢餓の呻きごえは、今年の田園の鬼哭啾々とした琴歌のようにきこえる。戦災と天災、二つの歯車のぎしぎし鳴ってからみ合う、瀕死の琴歌が地に這っている。」 (囂々=声のやかましいさま。鬼哭=浮かばれぬ亡霊が恨めしさに泣くこと。啾々=しくしくと力なく泣くさま。以上広辞苑より)

 原民喜と大田洋子の被爆体験は、このようなものでした。原民喜が、繊細で感受性の鋭い性格と評するならば、大田洋子は、行動的で自己主張の明確な性格だと云えます。およそ対照的な二人ですが、広島での被爆・逃避の体験は、共通点が多い。既に作家として東京で暮らし、疎開して故郷・広島に滞在し、そして8月6日に遭遇しました。戦後、東京へ帰って、作家活動を再開します。そして二人はともに、いたましい死をとげました。原民喜は、1951年3月13日、朝鮮戦争への恐怖と原爆症の苦悩から、国電吉祥寺駅近くの線路にて自殺。大田洋子は、1963年末、旅先の温泉旅館で入浴中に心臓麻痺で急逝。どちらも、被爆の恐怖と放射能による身体の不具合を抱えながら、おそらく悶え苦しんだ日々だったと思います。
 天災と人災、二つの歯車のぎしぎし鳴ってからみ合う、3.11フクシマを、8.6ヒロシマを原民喜と大田洋子が書き残したように、誰がよく、書くことが出来るでしょうか。そのなかで現代の作家たちは、どのようなメッセージを、30年後、50年後の人びとに伝えることが、できるのでしょうか。それは、経済のために原発を維持しつづけた弁明のためのメッセージとなるのでしょうか、それとも、脱原発の道を選択し、今までの生き方を見直して、命を大切にしょうとする決意のメッセージとなるのでしょうか。ペンを持って(あるいはキーボードを叩いて)作品を残すのは作家たちの仕事ですが、未来の人びとへのメッセージの中身、つまり国の未来を決めるのは、現在日本に住む私たちの1人ひとりです。

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