イザベラ・バードの見た日本および日本人
英国人旅行家イザベラ・バード(1831-1904)は、1878年(明治11年)5月、サンフランシスコ・上海を経由して、横浜港に到着しました。「ほんとうの日本の姿」を見たいとして、東北・北海道の奥地旅行を企図します。彼女は、6月10日東京を発ち、東北地方を北上して青森に至り、さらに船で函館へ渡って道南を海岸沿いにめぐり、函館に戻りました。帰路は、函館で乗船し、9月17日横浜に到着。丁度100日間にわたる日本奥地旅行でした。この間の陸上での移動距離は、約1,600キロメートル。18歳の日本人男性を通訳兼案内人として雇い、主に馬と徒歩による長旅でした。(イザベラ・バード著『日本奥地旅行』平凡社ライブラリー、2000年刊より)
貧困と勤勉 バードの日本人に対する最初の印象は、「小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相」で「汚らしく貧しい姿」でした。また、日本の家は、「みすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚いものが多(く)、悪臭が漂」っていました。しかし、「浮浪者が一人もいな(く)みな自分の仕事をもって・・・仕事にはげんでいた」ことを、同じ箇所に記録しています。これは、奥地での観察ではなく、横浜・東京でのものです。
では奥地つまり東北の山村は、彼女の眼にどのように映ったのでしょうか。会津と越後のあいだの山村。「この地方の村落の汚さは、最低のどん底に到着しているという感じを受ける」と手厳しい。人間が、焚火の煙で黒くなった小屋に、犬や鶏、馬と一緒に住み、堆肥の水が井戸に流れ込み、裸に近い着衣は汚れ、大人は虫刺されで炎症し、子どもは皮膚病にかかっている。「彼らの生活習慣に慎みの欠けていること」に、ぞっとします。しかし、村人の勤勉さと礼儀正しさについて指摘することを、忘れません。最先進国・英国の上層階級出身者の眼には、後進国日本の奥地の現状は、このように見えました。
親切と礼儀 日本奥地の貧しく汚れた人びとは、他方で、親切で礼儀正しい人びとでした。バードが、忘れ物をとりに行ってくれた馬子に謝礼を払おうとしたとき、彼は「旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任」だとして、それを受け取らなかった、という体験を「たいへん気持ちがよい」と感想を述べています。またある駅舎で、彼女が暑くて困っていたところ、女たちが団扇で一時間も扇いでくれました。そこで料金をたずねたところ、「少しでも取るようなことがあったら恥ずべき」だといって、一銭もとりませんでした。バードは、この親切に「心をひどく打たれ」ました。商品経済が既に、東北の山村にも浸透してきている中で、サービス労働の商品化はいまだ、未分化だったといえますが、それよりも労働に対する倫理観の確かさを感じます。
はじめて見る外国人 バードは、夕方や夜に、その日の旅程を終えて宿に着くたびに、村人たちの「外国人見物」という歓迎を受けます。秋田県の湯沢では、他所と同様に群集が押しかけてきました。後の者たちは、梯子をかけて隣の屋根から見ていたところ、屋根が崩れて五十人ばかりが、投げ出されました。群集は、「こんなことは二度とみられない」とか「男か女か教えてくれ」とか「今日見たことを家へ帰ってみんなに話したい」などと話しています。彼らは、「まことに奇妙な群集で、黙って口だけ大きく開け、何時間もじっと動かずにいる。・・・群集が皆じっと憂鬱げに私を見つめているのは、私を堪らない気持ちにさせ」ました。他の宿では、障子の穴からたくさんの目が彼女を見つめていました。
子どもたちのこと バードは、子どもたちの姿を、強い関心をもって見つめています。奥地の子どもたちの、疥癬、しらくも頭、たむし、ただれ目、発疹などに心を痛めながらも、彼らがおとなしく従順であること、大人の手伝いをやり、幼児の面倒をよく見ることに、感心しています。青森県の碇ガ関で、子供たちに菓子を与えた時のことを、次のように記しています。「彼らは、まず父か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない。許しを得ると、彼らはにっこりして頭を深く下げ、自分で食べる前に、そこにいる他の子どもたちに菓子を手渡す。子どもたちは実におとなしい。しかし堅苦しすぎており、少しませている」。子どもたちが、子どもの遊び-衝動的に暴れたり、取っ組み合いの喧嘩をしたり、叫んだり笑ったりすることなど-をするところを見たことない、と記した後、甲虫で遊ぶ少年の姿を、印象的に書いています。「頭のよい少年が二人いて、甲虫の背中に糸をつけて引き綱にし、紙の荷車をひっぱらせていた。八匹の甲虫が斜面の上を米の荷を引きながら運んでいく。英国であったら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいく虫の運命はどうなるか、あなたはよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見つめている。「触らないで!」などと嘆願する必要もない」。
旅の食事 バードが東京から持参した食べ物は、肉エキス・乾葡萄・チョコレートだけで、主として現地調達で賄いました。現地の宿で提供された米・豆腐・豆・野菜などを、もっぱら食べます。日光から奥深い山間地に入った10日間、魚や肉や鶏肉はいちども口に入りませんでした。やっと手に入れた鶏も、森の中に逃げてしまいました。その代わりにでたのは、卵と前日男が蓆の上で踏んでいた蕎麦でした。だからバードは、「食物についてあまりうるさく考えないほうがよい」と悟ります。米沢盆地の市野々では、駄馬に代って子牛を連れた牝牛を借りることが出来ました。新鮮な牛乳が手に入ると期待しますが、みんなに笑われました。子牛のための乳を人間が飲むことは、「とてもいやらしいこと」だし、外国人がお茶に「こんな強い臭いのする」ものをいれことは、やはり「いやらしい」と思っているのでした。鶏は肉用でなく卵用であり、牛乳は子牛用で人間用ではなかったのです。
野蛮と文明開化の奇妙な組み合わせ バードは、新潟市や秋田市(久保田)では、近代的な病院や師範学校を訪ね、文明開化の最先端の現場をみて感心すると同時に、それを担っている人びとについては、例えば、師範学校の校長と教頭について、「二人は洋服を着ているので、人間というよりも猿に似て見えた」と揶揄しています。そのバードも、子どもたちから、猿回しの猿に間違えられたこともあったのですが。また奥地では、次のような野蛮と文明開化の奇妙な組み合わせを観察しました。電柱が建ち、両側に堀が掘られた25フィート(7.6メートル)幅のよく手入れされた道路のうえを、赤銅色の男たちや裸同然の夫婦者-男は褌のみで女は腰まで脱いだ姿で-車をひく姿を見掛けました。またその道を、「子どもたちが、本と石板をもって、学課を勉強しながら学校から帰る姿」も見ることができました。
日本の家族 秋田県の大館をすぎた白沢で、典型的な農村家族の様子を、次のように記録しています。「ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人々は仕事から帰宅し、食事をとり、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもたちが遊ぶのを見ていたり、藁で蓑を編んだりしている。彼らは、一般にどこでも、このように巧みに環境に適応し、金のかからぬ小さな工夫をして晩を過ごす。・・・いかに家は貧しくとも、彼らは、自分の家庭生活を楽しむ。少なくとも子どもが彼らをひきつけている」。バードは、英国の労働者階級の家庭は、口論や言うことを聞かなかったりして騒々しい場所となっているし、夜は酒屋に人が集まり、日本の家族のような、静かでゆったりとして団欒の場が「残念ながらない」と自省しています。
英国人旅行家イザベラ・バードが、東北地方の山村にみた日本および日本人は、例えば以上のようなことなどでした。
« 池澤夏樹著『静かな大地』に読むアイヌの生き方 | トップページ | イザベラ・バードの見たアイヌ »
イザベラさんが経験し感じ取った当時の日本人の暮らしぶりが時を隔て手に取るようにわかる気がします。昭和時代も同じ様だっだかもしれません。貧しくとも平和な生活・一家団欒の生活ぶり等。海外の人の目で見た日本の印象は別の視点で大変驚きました。
もし現代の日本の暮らしぶりをイザベラさんがみたら違った印象を感じ取られるかもしれません。
イザベラ・バードさんの日本紀行をぜひ読みたいと思いました。
投稿: 藤井重郎 | 2021年4月 3日 (土) 16時12分