イザベラ・バードの見たアイヌ
先に読んだ池澤夏樹著『静かな大地』に、主人公・宗形三郎が、「アイヌとともに生きよう」と決断したきっかけは、「アイヌは気高い人種だ」というバードさんの言葉だった、と述懐する場面があります。彼女がイザベラ・バードであることは、平取で会った旅行家のイギリス婦人、という記述からあきらかです。バードの『日本奥地紀行』を読むきっかけは、この池澤氏の小説でした。
もっともバードの紀行文には、平取滞在中に日本人青年に出会った、という記述はないので、『静かな大地』のバードの話は、著者による創作だと思います。また、「アイヌは気高い人種だ」というバードの言葉も、直接には書かれていません。しかしバードは、「アイヌは純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」とほめたたえ、「彼らの低くて美しい声の音楽・・・彼らの穏やかな茶色の眼の柔らかな光・・・彼らの微笑のすばらしい美しさ」に強くひかれて「決して忘れることはあるまい」とまで記しています。また、アイヌの宗教的観念を「いくつかの漠然とした恐怖や希望」と「自分たちの外の大自然の中に自分たちよりも強力なものがいるのではないか、という気持」に求め、そのことをアイヌの大祭のときに唱えられる、森や海に対して感謝を捧げる素朴な文句の中に、見い出しています。池澤氏は、バードのこうした観察記録に強く示唆されて、「アイヌは気高い人種だ」という言葉を創作したものだと思います。
『静かな大地』との関連で、もう一点だけ、触れておきます。アイヌの女性たちの入れ墨についての記述のなかで、バードは、つぎのような一節を書いています。「白老のある少女は、何かの理由でこの入れ墨をすることを承知しなかったので、その姿や色合いは自然のままの優美な形をしていて、私が長い間見たこともないほどの美しい女性となっている」。池澤氏の『静かな大地』を読んだ人ならすぐに、三郎の妻エカリアンを思い起こすだろうと思います。彼女も、入れ墨をしていないピリカメノコ(きれいな娘)でした。池澤氏は、エカリアンをアイヌ夫婦に育てられた和人の子どもとして描いています。バードが出会った入れ墨のないアイヌメノコは、何故入れ墨をしなかったか、想像力をかきたてられます。
バードの眼に映ったアイヌ像を、もうすこしフォローしておきます。
彼女は、目的地の平取とその近くのアイヌ村で、「家屋の外はきわめて清潔にきちんとなって・・・どこにも屑が散らばっている形跡はない」ことに驚き、「模範的な村」だと誉めています。また村人の健康については、「三百人が住んでいるこの村に慢性病に苦しんでいる人はいない。ただ一人の気管支炎患者と、子どもたちの間に皮膚病があることだけである。また私が訪れた他の五つの大きな村にも、身体の不自由な子どもはいない。例外として、片方の足がちょっと短い少女がただ一人いるだけである」と観察し、アイヌは「健康な民族」だと称賛します。バードが東北奥地の多くの村で見た貧困や病気と極めて対照的な記述です。
バードは、アイヌの「低い音楽的な調子」の話し方に、強くひかれたようです。日本の下層階級の人びとが、「声の限り高い声でしゃべる」のと比較しています。
二ヶ月の間東北を旅し、日本奥地の村や人びとを観察し、とことん彼らとつきあってきたバードにしてみれば、どうしてもアイヌを、日本人と比較して見ることになります。
バードは、平取のアイヌ小屋で三日二晩泊まり、アイヌたちと一緒にすごします。そのときのアイヌの人たちの歓待ぶりを、次のように記しています。「彼らは、日本人の場合のように、集まって来たり、じろじろ覗いたりはしない。おそらく無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない。この三日間、彼らは上品に優しく歓待してくれた。しかもその間彼らは、自分たちの日常生活と仕事をそのまま続けた。・・・彼らは少しも他人の細かい神経にさわるようなことをしなかった」。
アイヌの女たちについて。「彼女たちは快活にみえ、微笑するときは楽しそうである。年よりも早く老けてしまう日本の女性とは似ていない。・・・アイヌの女性は熱心に働くけれど、そのような過酷な仕事をさせられているとは思えない」。バードは、日光から会津へ抜ける街道の宿で、50歳ぐらいに見えた宿の奥さんが、22歳だと聞いて、驚いています。また、米沢近くの小国街道で、女が男の人夫に混じって、重い荷物を運んでいるのを目撃しています。
アイヌと日本人の比較の極めつきは、両者の外観比較です。「日本人の黄色い皮膚、馬のような固い髪、弱々しい瞼、細長い眼、尻下がりの眉毛、平べったい鼻、凹んだ胸、蒙古系の頬が出た顔形、ちっぽけな体格、男たちのよろよろした歩きぶり、女たちのよちよちした歩きぶり、一般に日本人の姿を見て感じるのは堕落しているという印象である」。よくぞここまで書いたな、と腹立たしいばかりですが、遠からずも当たっている所もあって、苦笑いするばかりです。19世紀半ば、ひとりの英国人女性が、日本人の姿をこのように見た、というのは事実です。では彼女は、アイヌの人びとをどのように見たのか。「眉毛は豊富で、顔をほとんど真横に、真っ直ぐな線を描いている。眼は大きく、かなり深く落ち込んでいて、非常に美しい。眼は澄んで豊かな茶色をしている。その表情は特に柔和である。睫毛は長く、絹のようにすべすべして豊富である。皮膚はイタリアのオリーブのように薄黄緑色をしているが、多くの場合に皮が薄く、頬の色の変化が分かるほどである。歯は小さくてきれいに並び、非常に白い」。バードは、アイヌの人びとに、アジア的というよりもヨーロッパ的な印象を受けたのです。
アイヌと熊の関係については、次のように記述しています。「アイヌ人は温和で平和を愛好するが、猛だけしいことや勇気を非常に賛美する。熊は彼らにとって最も強く、最も猛だけしく、最も勇気のある動物であるから、あらゆる時代を通して彼らに尊崇の念を起こさせてきたことであろう。彼らの素朴な聖歌のいくつかは熊を賛美するものであり、人間を賞賛するときの最高の言葉は、彼を熊に譬えることである。例えば・・・「彼は熊のように強い」という」。
バードは、6月10日に東京を発ち、ほぼ2ヶ月をかけて東北奥地を旅行しました。8月12日、函館到着。北海道の奥地にアイヌを訪ねる旅は、8月16日、函館を発ってはじまりました。その旅程は、つぎのとおりです。函館-森-(汽船)-室蘭-白老-湧別-佐瑠太-平取-門別-室蘭-礼文華-長万部-森-函館。函館に9月11日到着してるので、27日間の道南旅行だったことになります。この間の移動は、町に近く道路事情のいいところ(短い距離でしたが)は人力車を使い、他のほとんどは、乗馬での移動でした。東北奥地の旅行でも、多くを馬に頼ったのですが、途中、落馬したり咬まれたりして、駄馬たちの素質の悪さ、つまり馬の調教の未熟さを痛感してきました。北海道で、日本人による馬の調教現場をみて、驚きかつ怒っています。
調教されようとしていた馬は、りっぱで元気がよく、今まで人が乗ったことがなく、すこしも悪い癖がありませんでした。一人の日本人は、「拍車をかけて早駆けさせ、全速力で行ったり来たりした。力いっぱい方向を変えたり、あるいは尻餅をつかせたり、拍車で責めつけたり、板切れで耳や眼を無慈悲に打ち叩き、馬を威したりした。ついに馬は血が流れて眼がかすんでしまつた。馬が疲れはてて立ち止まろうとすると、彼は、なおも拍車をかけ、急にぐいと引いたり、鞭打ったりしたので、ついに馬は汗をかき泡を吹き血だらけとなった。血は口から流れ出して道路にはね返り、馬はふらふらとよろめいて倒れた」。そしてバードは、強い怒りを込めて、次のように書き残しています。「馬は調教されたといっても、実際は馬の心がめちゃくちゃにされたのであり、これから一生の間、役に立つまい。それは野蛮で残忍な見世物であった。暴力の勝利とは、いつもそんなものである」。この馬の調教の話の直前に、バードは、次のように語っていました。「アイヌ人が日本人と接触することは有害であり、日本文明との接触によって、益するところはなく、ただ多くの損を得るばかりであったことはあきらかである」。池澤夏樹氏の『静かな大地』のなかで、主人公・宗形三郎が、牧場経営にあたって馬の調教を、全面的にアイヌの人びとに任せたのは、このような背景があったのだと了解させられます。そして、宗形三郎の悲劇は、アイヌと和人の共存・共栄のうえに、自らの農場の発展を、さらに北海道の発展を期そうとしたことに起因したと、言わざるを得ません。日本人がアイヌモシリを植民地として征服したのだという事実は、消すことはできません。バードは、アイヌに強く魅かれながらも同時に、この民族の悲劇を予感しました。「アイヌは・・・多くの被征服民族が消えて行ったと同じ運命の墓場に沈もうとしている」と記しています。
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