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2011年10月 4日 (火)

静かな大地(北海道)への旅

Img_0636_1  先週の月曜日から6日間、北海道東部を旅行しました。茨城県の大洗港からフェリーに乗って苫小牧へ向かいましたが、出航間際の港の空は夕焼けが美しく、海も穏やかで、幸先の良い旅の始まりとなりました。大洗から苫小牧までの航路は、3.11東日本大震災被災地の沖合いにあり、翌朝、三陸海岸に向かって、短い黙祷をささげました。

Img_0805_1 苫小牧上陸後最初の訪問地は、日高地方の静内とその周辺。滞在時間が短いため、競走馬の育成牧場を道路から見物しながら、シャクシャインの砦跡に向かいました。道路沿いには、中央競馬で活躍した名馬たちを育成した牧場が、次々に現れてきます。池澤夏樹著『静かな大地』には、主人公の宗形三郎が、明治の初め、アイヌの人々とともに牧場を開き、軍馬や農耕馬を育成したことが語られています。その伝統の上に、日高地方におけるその後の競走馬育成があるのだ、と実感します。人気のない広々とした牧場では、サラブレッドたちがのんびりと、草を食んでいました。
Img_0841_2  「静内がどんなところだったか」と三郎の弟・志郎が、ふたりの娘に聞きます。「染退(しべちゃり)川がありました」「山がたくさんあって牧場がある」と娘たちは答えます。「しべちゃり」とはアイヌ語で、「鮭が卵を産むところ」の意味と、この小説にあります。現在の静内川。その川を渡ってすぐの小高い丘が、真歌の丘。ここに、シャクシャインの砦がありました。砦跡には、シャクシャインの立像があり、その横の碑文には、つぎのような説明がありました。「・・・松前藩政の非道な圧迫と過酷な搾取は日増しにつのり民族の生活は重大な脅威にさらされた 茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった・・・」。Img_0842_1 このシャクシャインの蜂起は、1669年のことです。この小説には、この敗北の後シャクシャインは、砦(チャシ)に籠もって抵抗をつづけ、松前藩を寄せつけませんでしたが、ついに和議に応じその宴席にて騙まし討ちにあって殺された、と語られています。こうした和人の奸計は、常套手段でした。こうしたことは、碑文には触れられていません。旅の最終日、旭川市彫刻美術館でたまたまみた舟越保武作『原の城』は、島原の乱(1637-8)の兵士をモデルにした彫像ですが、今回の旅の最初と最後に  期せずして、17世紀半ばの日本列島を震撼とさせたふたつの民衆蜂起の記念像に出会ったことになります。北の民は、異民族による侵略に対して蜂起し、南の民は、支配者による宗教弾圧に対して決起したのです。どちらも敗北し殺害されますが、彼らの蜂起した史実は、現在なお語り継がれています。
Img_0845_1 真歌の丘には、シャクシャイン像と向かい合うように、アイヌ民俗資料館とシャクシャイン記念館が建っており、アイヌの人々の伝統的な生活と文化を紹介しています。資料館では、3冊の小冊子(『アイヌ民族を理解するために』『アイヌの人たちとともに-その歴史と文化-』『アイヌ民族:歴史と現在』)を無料でいただきました。これから丁寧に読んでいきたいと思います。
 今回の旅の仲間5人は、かつて職場を共にした者たち。札幌・群馬・千葉・東京・姫路からの参加です。北海道最初の夜は、えりも町の太平洋に面した宿でした。5人の旧友たちは、とびきり美味い刺身を摘みながら、久々の再会と旅の同行を喜びあいました。食後、ほろ酔い加減のまま、池澤夏樹著『静かな大地』からお気に入りの数節を読みあって、北の大地での読書会としました。全員、初めての試みであるにもかかわらず、熱心に語り合いました。姫路から参加したTさんが朗読した、この小説の最後に掲げられた詩を、抜粋し引用します。
 
 今はなき大地を偲ぶ島梟(しまふくろう)の嘆きの歌 
 
 あの頃は山に木が生えていた。
 あの頃は山にたくさん木が生えていた。
 わたしたちは古い水楢(みずなら)の幹に巣を作った。
 榛(はん)の木の梢を越えて飛び、谷地椨(やちだも)の枝をかすめて飛んだ。
 千島笹は北の風にさわさわ鳴り、日当たりのよい丘の辺には柳蘭が赤い花を揺らした。 
 あの頃は山に木が生えていた。
 
 あの頃は川にたくさん鮭が上った。
 ・・・・・・8行略・・・・・

 あの頃は山にたくさん鹿がいた。
 ・・・・・・5行略・・・・・

 今はみないなくなった。
 山には木はなく、川には鮭はなく、山には鹿はなく、狼もなく、アイヌもいない。
 わたしたちは巣を作る水楢の木にも事欠いている。もうわたしたちの卵は孵らず、雛は育たない。
 誰もいない何もない山に風が吹くばかり。
 風がふくばかり。
 今はみないなくなった。
 今は、わたしたちの嘆きの歌がこだまするばかり。

Img_0884_1 翌日、えりも町から広尾町を経て十勝平野に出、本別・足寄を通って阿寒湖に向かいました。途中、十勝平野の広大な畑作地帯では、飼料用トウモロコシは刈り取られて切り株だけとなり、馬鈴薯の収穫作業も終わりに近く、ただ、砂糖大根(ビート)だけが、大型のホウレン草のような葉を残していました。北海道の畑作地帯はすでに、立毛する作物も少なく、殺風景で寂しい。車中からこんなことを感じながら窓の外の風景を眺めていたとき、陽の光をいっぱいに受けて黄金色に輝くヒマワリの大群が突然、姿を現しました。澄み切った青空の下、ヒマワリたちが元気いっぱいに、咲き誇っていました。札幌から来た友人は、緑肥用のヒマワリだと思う、と教えてくれました。

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