「松代大本営」地下壕を訪ねて
去る11月3日、地元「九条の会」主催の戦争と平和を考える小旅行に参加しましたが、既に書いた戦没画学生の遺作を展示した上田市の「無言館」につづき、「松代大本営」地下壕工事跡について記します。
この地下壕は、長野市松代町にある三つの山(象山・舞鶴山・皆神山)に掘られており、そのうち公開されている象山地下壕を見学しました。
象山地下壕の入り口は、支柱用の坑木で囲まれており、鉱山の坑道入り口のようでした。参加者は全員白いヘルメットを被り、「松代大本営の保存をすすめる会」メンバーの案内で、地下壕へ入っていきました。
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坑道は、幅約4m、高さ約3mの広さで、入り口で受けた印象とは異なり、結構広い。この地下壕は、アジア・太平洋戦争末期、日本の政府と軍部が、本土決戦に備えて大本営はじめ政府機関等を、安全な場所へ移転させるために掘ったものです。このなかには皇居の移転も計画されていました。
. ランプの灯った坑道の要所では、案内人がこの地下壕建設の時代背景や内実について、丁寧に説明しました。松代大本営建設は、敗色濃厚となった1944年(昭19)7月に決定され、同年11月から着工されました。11月24日には、東京がB29の初空襲をうけています。それから45年8月15日までの約9ヶ月間、当時の金で2億円の巨費を投じ、延べ300万人の労働者が動員されたと云われています。
その中心を担ったのが、強制連行されたり日本各地の工事現場から連れてこられた7000人以上ともいわれる朝鮮人たちでした。彼らは、昼夜二交替の最も過酷な労働を強いられ、死亡者数は100~200人を数えたといわれますが、詳細は不明のままです。坑道の天井は、掘削された岩盤の岩肌がむき出しになっており、当時の工事の様子を想像させます。坑道の壁には、50㎝ほどの錆びた鉄棒が、突き刺さっていました。これは、ダイナマイトを仕掛ける穴をあけるための削岩機の回転棒が抜けたものです。この発破作業は、最も危険で犠牲者も多かったようです。戦後松代に住みつづけて、大本営地下壕について証言した朝鮮人労働者の一人崔小岩(チェ・ソアム)は、不発ダイナマイトに触れて吹き飛ばされた仲間四人の死について、次ぎのように証言しています。 「煙で真っ暗だ。なかに入ってみたらまあ、四人の姿が一つもねえからね。そいでまあ、全部中で拾う。まあ、肉や骨を。みんなバラバラになっちゃったから、全部集めて・・・。どうも一つ頭がねえんだよ、首の上が。・・・ちょっと山があってね、揺れるから掘ってみたら・・・何が上からポツンと落ちるから、こうやって掘ってみたら、真っ赤だ。ちょうど頭そこ入ってた・・・」(証言集『松本大本営と崔小岩』から)。
暗い坑道を更に進むと、 「松代象山地下壕案内図」という看板が立っていました。象山地下壕の平面図です。坑道は条里状に掘られており、東西に20本、南北に7、8本が通っています。総延長約6㎞で、松代地下壕で最も規模が大きい。ここには、政府の一部と日本放送協会海外局が入る予定でした。案内図の赤線部分は、現在見学可能な坑道で、私たちはこの500mの坑道を往復しました。
坑道の突き当たりの近くに、未公開の坑道の壁に描(書)かれた漢字と顔のような絵の写真がありました。漢字は「大邱」と読み取れ、強制連行された朝鮮人労働者が、故郷の大邱(てぐ)を想って落書したものと想像されます。地下壕のなかにあった朝鮮人労働者の唯一の痕跡です。
松代町には、地下壕工事にともない、慰安所が設置されました。ここで、若い朝鮮人女性が、慰安婦として性的サービスを強要されました。強制連行などできた朝鮮人労働者の犠牲とともに、この慰安婦となった若い女性たちのことも、記憶にとどめなければなりません。戻ってきた地下壕入り口には、朝鮮人犠牲者の慰霊碑が建っていました。
天皇と戦争指導者たちが、自分たちの安全な逃亡先を確保したうえで、本土決戦に備えようとしていたことを知り、彼らの罪深さをあらためて認識しました。イラクのフセインやリビアのカダフィの逃亡を、連想しました。
追伸:ブログ「NY金魚」さんが、FRYING DUTCHMANというバンドの「Human ERROR」という反原発ソングを紹介しています。直截で強烈な反原発メッセージは、是非、多くの人々に聴いてもらいたい。
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