無言館の絵
一昨日の文化の日、地元「九条の会」主催の「松代地下壕・無言館・大島博光記念館ツアー」に参加しました。歴史を学び、戦争と平和を考えるための、またとない機会となりました。長野県にある3ヶ所のそれぞれが、アジア・太平洋戦争のさまざまな面を、見学者に教えてくれます。最初に訪問したのは、上田市塩田平にある無言館。開館直後で、私たちの他は、入館者はわずかでした。
「自問坂」と書いた石碑のある坂道を上っていくとやがて石畳の小道となり、その小道のつきあたり、ゆるやかな丘陵の頂に、無言館がありました。木々に囲まれた建物は、飾り気のないコンクリート壁に囲まれ、小さな入り口の上部には、「戦没画学生慰霊美術館 無言館」の文字が、刻まれていました。先の大戦で戦死あるいは病死した美大卒の青年たち30余名の遺作・遺品を集めた美術館です。
無言館の中は、さほど広くない十字形の大部屋がひとつあり、その壁面に作品が展示されています。たとえば、つぎのような作品です。入り口を入ってすぐのところに、油彩画「裸婦」がありました。その下には、館長・窪島誠一郎氏が遺族の話と作品から読み取ったコメントが、記されていました。「あと五分、あと十分、この絵を描きつづけていたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・」。この絵の作者は、モデルとなった恋人にそういいのこして、戦地に発ちました。20年4月19日、ルソン島にて戦死。享年27歳。
応召を家人にも告げず戦地に発った若い画家は、遺作のほとんどを物置の雨漏りにさらされ、水彩画「婦人像」一点のみを残しました。意志の強そうな女性像です。マーシャル群島ブラウン島にて戦死。享年27歳。
油彩画「妹像」の作者が、可愛がっていた妹に宛てた葉書が、ガラスケースのなかに展示されていました。彼は、横長の葉書いっぱいに、大きな豚がのどかに寝そべった姿を描き、そのうえに、「今日は大きなハムが朝からおひるねです。満州風景のたりのたりかな・・・」と書き送りました。19年7月18日、奉天からテニアンに移動し、その地で戦死。享年27歳。
たまたま「享年27歳」の作者たちを取り上げましたが、亡くなった年齢は、ほとんどが20代から30代前半です。さまざまな土地で、さまざまな戦死をしています。戦病死も多い。夭逝した画家たちの無念の思いが、ここに寄せ集められているのです。
無言館出口で入場料を払い外に出ると、「時の庫(ときのくら)」という六角形の建物がありました。立て札には、遺作・遺品を保存、修復するための施設とあり、つづけて「傷ついた画布、焼け焦げたスケッチ帖一つ一つの生命を、私たちはもう一度よみがえらせる努力をして参ります」と、無言館の責務と決意が記されていました。展示された絵画のいくつかは、ひどく絵具が剥がれ落ち、無残な状態にありましたが、窪島館長はじめスタッフの努力により、作品として生きつづけていくものと思います。
戻ってきた無言館の前庭には、黒の御影石で作られた慰霊碑「記憶のパレット」がありました。アジア太平洋戦争で亡くなった画学生400余名のの名前が刻まれています。数年前に、この慰霊碑に赤いペンキがかけられるという事件がありました。当時、テレビか新聞報道で見た記憶がありますが、現在はきれいに拭き取られていました。戦争を記憶しつづけることを嫌悪する人の仕業なのでしょうか。いまだ犯人は、捕まっていないようです。
家内と赤いペンキ事件のことなどを話しながら坂を下っていくと、左手前方に、赤いペンキがかけられたコンクリートの壁が現れ、すこし驚きました。「絵筆の椅子(ベンチ)」と名付けられたモニュメントで、壁には立て状に多くの絵筆がはめ込まれていました。現在活躍中の画家や画学生の使っていた絵筆だそうです。裏側に張ってあった小さなプレートには、次のように記されていました。「2005年6月18日、実際に無言館の慰霊碑にペンキがかけられた事件を「復元」しました。無言館が多様な意見、見方のなかにある美術館であることを忘れないためです」。赤いペンキ事件の犯人ははからずも、建設途上の無言館事業に参加することになりました。窪島氏のやわらかな感性と懐の深さを、強く感じます。
これら戦死したり戦病死した画学生たちは、日本軍国主義の犠牲者であることはいうまでもありませんが、一方彼らはアジアの人々から、自国を侵略した加害者として恐れられ、憎悪されたことは、もうひとつの真実だと思います。彼らの絵を見ていて、こんなことを考え、なんともやるせない気持ちにさせられました。
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