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2011年12月22日 (木)

「被災の手記」-「世界」別冊から

 大学の先生が、地元紙記者にたずねました。「被災地の人たちが、これから最も心配していることは何だろう」。記者はこたえました。「自分たちが過去のこととして、忘れ去られてしまうことだ」。(玄田有史稿『復興という名の希望をつくるために』「世界」別冊2012/1所収)

 月刊誌「世界」(岩波書店)は、3・11以降、東日本大震災および原発災害について、くり返し特集を組んで、3・11の衝撃を語り、被災者・被災地の現状を報告し、そして復旧・復興と脱原発の道筋を指し示してきました。その「世界」が1月号(12/7発行)で、3・11以降7回目の特集「原発 全面停止への道」を編むとともに、同時に8回目の特集、別冊「破局の後を生きる」を刊行しました。編集者は読者へ、つぎのように語ります。

 いま、必要なのは、もっとも苦しむ被災の地の人びとの声を聞くことではないか。そして何がこのような破局をもたらしたか、真剣に議論し、考えることではないか。
 「取り返しのつかない」ことを「取り返す」(故・井上ひさし氏)。それは、破局をもたらした社会を根本から変えることである。
 この別冊はそのために編まれた。

 公募された「被災の手記」21篇が、心を強く打ちました。ここには、被災地の災厄を、虫の眼で見る間近さがあり、人びとの息遣いを、肌で感じる切迫感があります。テレビ画像でいく度ともなく見た、巨大津波に飲み込まれていく市街地のなかで、人びとはこのように被災し、ある人は亡くなり、ある人は命を繋ぎとめたのです。恐ろしいまでのリアリズムが、これらの文章にあります。

 自宅の屋根に逃れた初老の男性は、40,50メートルさきの屋根の上に、40歳代の男性の姿を見ました。「紺のジーンズに青いヤッケ、ディパックを背負い青い帽子をかぶり、私の方を見ながら右手を挙げ、西日に照らされながらにっこりと笑っていた。・・・ちょうどその時・・・プロパンガスボンベが爆発し・・・一瞬、そっちの方に目をそらした直後、その家も彼の姿も無くなっていた」。(大槌町  白澤良一)
 高台へあがる階段に逃れてきた男性は、波に流されてきたおばあさんを引っ張りあげて救い出しましたが、おじいさんは引き潮に連れ去られてしまいました。この男性も波に襲われ、階段の手すりに必至にしがみついて、助かりました。その目の前に、「三人の方が乗った車が流されてきました。閉まった窓ガラスを内側からどんどんたたいていましたが、そのまま流されていってしまいました」。(釜石市 斎藤武則)
 避難所の体育館にたどり着いた女性(50歳)は、津波から救助されたお年寄りの様子を、次ぎのように書いています。「時折「ギャー」と叫ぶ。眼をかっと見開き、何かを掴むように両手を伸ばす。・・・傍についている人はいない。・・・この夜、私の目の前で二人息を引き取った。悲しみとか恐怖とか・・・、死に対して無感覚だつた」。(気仙沼市 小野寺敬子)
  缶コーヒーを買い終えてコンビニを出た所で津波に襲われた青年(29歳)は、流れてきた車を目撃しました。「レジで前に並んでいたおっちゃんがさ、車乗ったまま流れて来るんだよね。目があっちゃってさ。なんで顔覚えてたかっていったら、レジにいたくせにあれ追加したり、弁当追加したりーとかしていて、長くてさ、腹たっててそんで顔覚えてたんだよね。・・・」。(石巻市 阿部一也)
 釜石小学校の「184名の子ども達は(下校後ばらばらのところから)それぞれの場所からそれぞれの避難場所に避難して、あの大津波から自分の命を守り抜」きました。震災から2日後に、全員の無事を確認して、職員室に拍手が起こりました。(釜石市 加藤孔子)

 巨大地震と大津波は、年齢を問わず男女を問わず職業を問わずに、ただ沿岸部にいたすべての人びとに襲いかかりました。そして福島の原発事故は、沿岸部のすべての人びととともに、福島県内の内陸部の人びとを巻き込み、さらに広く首都圏と東北の他県の人びとへも、深刻な影響を与え続けています。

 姑の「自分達だけ逃げるなんて」との反対を押し切って避難した二人の子どもの母親は、避難先の東京のホテルや旅館で、予約が入り満室となるたびに、他の部屋や別のホテルに移動するという惨めな体験を強いられました。「小雨の降る日、満室移動日に39.0の熱を出した子どもを連れて移動したこともありました。・・・原発さえなかったら !!・・・一日も早く、家族4人で暮らせる日が来ることを切に願うばかりです」。(避難生活 森山信子)
 息子を除く一家6人が、原発事故から逃れて村の公民館・いわき市の親戚・東京の親戚へと転々と避難しつづけ、そして4月3日、二本松に家を借りて引っ越した71歳の女性。「もの凄い絶望感、喪失感、虚しさ」を感じ、「私がここにいることなど誰も知らない。私は誰からも忘れられている」という孤独感に苛まされました。そこに遠方の学生時代の友人たちからの物心両面での激励に、元気を取り戻しました。(二本松市 比佐教子)
 33年前から有機農業を実践し、現在30軒の家庭に有機農産物を配達している51歳の男性は、近くの畑で取れた小松菜から3610ベクレルのセシウムが検出されたため、すべての野菜を捨てて、配達を中止しました。「野菜も山菜もまいたけもはちみつも池の魚も何も食べられない。生態系を切られたら僕たち家族には生きるすべが無い。収入も保証も・・・」。(仙台市 石森秀彦)
 20キロ圏内自宅から30キロ圏内の避難所へ逃れ、さらに那須高原のボランティア宅を経て川崎市の長女の家にたどり着き、そして横浜市の公営住宅にはいった68才の男性は、9・19「さようなら原発 5万人集会」で、福島の女性が語った「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」 という言葉に肯き、「そうだ、鬼にならねばならぬ、と涙がこぼれた」と記します。(横浜市 村田 弘)
 
 9月19日、同じ明治公園にいた私も、この福島の女性の発言に、強い衝撃を受けたことを思い出します。古代、まつろはぬ人ども(天皇に服従しない者たち)を、鬼や土蜘蛛と称しました。そしていま、原発国家にまつろはぬ人びとは、再び鬼となって、犯罪としての原発事故を追及しなければなりません。最後に紹介した村田弘さんの言葉を続けます。

 「惨禍に泣いた人々、怒りを覚えた人々、不安を心に抱える人々、邪悪を許せない人々のすべてが告発人となって、問わなければならない。「日常を破壊した罪」「人が人として生き、弔うことさえ妨げた罪」「自然と人間が共に生きる仕組みを破壊した罪」「物言わぬ生き物たちを虐殺した罪」を、鬼となって追及しなければならない。そのための「フクシマ民衆法廷」を開設しなければならない。」(村田 弘)

  この村田弘さんの言葉に、全面的に賛同します。もはや私が、未熟な言葉を重ねることはできません。ここに紹介した「被災の手記」を是非、読んでいただきたいと思います。大津波と原発災害の犠牲者・被災者のことを、深く記憶にとどめ、決して忘れないために。

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