葉落帰根(葉落ちて根に帰す)
東日本大震災と福島原発事故による福島県の避難者は15万人を超え、そのうち県外への避難者は6万人を突破した、と報じられています(11/16現在、朝日新聞)。原発事故被災地では、放射能を取り除く除染作業が開始されていますが、こうして避難した人びとがいつ帰れるかは、まったく目処が立っていません。チェルノブイリの経験は、放射能汚染された広範囲の地域が、永久に帰宅不可能となることを、わたしたちに教えています。多くの人びとがいま、故郷喪失の崖っぷちに、立たされています。
水上勉の小説『故郷』(集英社1997年刊、集英社文庫)は、原発事故による故郷喪失を厳しく警告した作品です。舞台は、水上の生まれ故郷である福井県若狭。その若狭湾沿岸は、典型的なリアス式海岸で、風光明媚なところとして多くの人びとに愛されてきました。一方、そこには現在、14基の原発が集中して立地し、原発銀座と呼ばれています。こうした若狭に、若くして渡米し日本料理店で成功をおさめた初老の夫婦が、老後を故郷で暮らしそこを終の棲家としたいと考えて、30年ぶりに帰ってきたのです。
妻富美子は、かつて米国人僧侶から受けた禅宗の教えを、思い返します。「葉落帰根」(はおちてこんにきす)。木の葉が枯れ落ちれば根に帰る。
「人はみな、生まれ故郷へ帰るものなのです。木の葉をごらんなさい。秋がきて黄色くなって風にふかれて落ちてゆきます。けれども、そのたくさんの葉は、みなその木の根にかえって、地面を這ってくさってゆきます。土になります。葉が地面に落ちたころに、梢の果実がやはり地面に落ちます。栗の実でも、椎の果でも、果のなる木は、みな葉のあとに落ちます。落ちた果は、さきに落ちていた枯れ葉につつまれて眠ります。冬がきても、果はくさった葉に暖かくつつまれて身を守られます。春がくると、やがて、果のなかにたくわえていた種子を発芽させて、くさった葉を栄養に双つ葉を生みます。人間も同じです。」
晩年をおくって死ぬ場所としたい、という富美子の故郷・若狭に、原子力発電所が集中して立地しています。夫は、静かで美しい若狭に魅せられながらも、原発の存在にこだわり、素直に妻の言い分に頷けません。二人の意思が通じ合わない背景に、アメリカにいる長男の厳しい原発否定論がありました。富美子と長男謙吉の会話。
「あれは文明のお化けだよ。何も年とってからお化けの棺桶のそばへ眠りにゆかなくていいじゃないか」「謙ちゃんにかかるとママの故郷は二束三文になっちゃったけどね・・・ママには、この世にたった一つしかない故郷なの」「そこが原爆の巣になっちまってるんだよ。ぼくは、異常だと思うよママの故郷は」「日本はいま、世界一のお金持ちになれた・・・その原動力を国に提供しているのが若狭なのよ。ママの故郷なのよ。ママのお爺さんやお婆さんがいなければ、日本の今日の発展がなかったかもよ。そんなに、ママの故郷をいじめないでよ。山も海もきれいなところなんだから・・・」。
夫は、日本の経済成長を認めながら、そのスピードの速さにはどこか無理があったと考えています。せまい若狭に、15基も原発があつまっていることにも、すこし無理があると感じています。そして長男の原発否定論に賛成し、その根拠を、次ぎのように妻に語りかけます。「五十年使ったあとの、原子炉が、六百年もくすぶって残る・・・いくら安全につとめてを終えても、発電炉はぼくらが死んだあと六百年も燃えつづけてゆく、燃える棺桶だ・・・それに、廃棄物をいっぱいだすが、いまのところその捨て場所が国内にはない・・・何かことが起きれば、母さんの故郷は死ぬんだ。やつが、燃える棺桶だといったうらには得体のしれない、まだ地球上で、だれも見たことのない六百年も燃え続ける処置しょうもない原子炉のことをクリーンだということに反対なんだよ・・・」。
富美子は、故郷擁護の立場から、肯定とも否定ともつかずに迷っていますが、「しかし、そういう夫も、謙吉も、みな、原発の恩恵で、生きている今日を否定できない。恩恵はうけておいて、理屈で否定するのはずるい」と思っていますが、口には出せないでいます・・・。
水上勉が、小説『故郷』のなかで展開した原子力発電についての直截な批判箇所について、紹介しました。この小説は、1987年7月から2,3年間にわたり、京都新聞や福井新聞などの地方紙に、連載されたものです。チェルノブイリ事故の翌年からの連載です。作中にはスリーマイル島のことは触れられていますが、チェルノブイリのことは一切出てきません。しかし作者が、チェルノブイリ事故に衝撃をうけて、『故郷』を書き始めたことは、想像に難くないことです。小説家水上勉が、故郷である若狭の原発事故を、現実のものとして危惧していた、と『故郷』を読み終えた今、強く感じます。福島ではいま、木の葉は落ちて根に帰ることなく、除染によって大地から引き剥がされ、落ち着く場所さえなく漂っています。
水上勉が、「ふげん」「もんじゅ」という仏弟子の名が、原子力発電所の名前として使われていることに対して、強い違和感を覚えていたこと、また、プルトニウム増殖炉が、「節約」や「物を大事にする」という考えとは異質で、「どこやら寒い風が吹くような気がしはじめた」と、この小説の「あとがき」に記していたことも、付記しておきます。
小説の舞台・若狭では、定期検査のため現在停止中の大飯原発3,4号機の再稼働が、他の停止中の原発に先駆けて、進められようとしています。経産省原子力安全保安院は、関西電力の提出した大飯原発3,4号機のストレステスト(耐性検査)1次評価について、妥当と判断する方針を固めた、と新聞は報じています。これを機に、政府と関西電力は、再稼動に向けて駒を一歩進めます。しかし脱原発を実現していくために、安易な原発再稼動は、許せません。いわんや、福島原発事故の調査結果のでない段階での再稼動は、言語道断だといわざるを得ません。
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