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2012年3月 7日 (水)

3・1 ビキニデーを記憶しつづけるために

 昨年の7月、はじめて東京・夢の島に第五福竜丸展示館を訪ねました。その2日前のNHK・ETV特集『大江健三郎・大石又七 核をめぐる対話』のなかで、ビキニ事件の最も若い被爆者であった大石又七さんは、痛恨の思いを込めて、次ぎのように発言しました。「私たちがビキニで体験した恐怖を今、福島の人たちが体験している。ビキニ事件のとき、放射能と核兵器の怖さを世の中に知らせるべきであったが、それが隠されてきた。その結果が、福島の原発事故につながった。」

 第五福竜丸展示館を訪ねた際に、大石又七さんの著書『ビキニ事件の真実』(みすず書房、2003年刊)を買い求めました。水爆ブラボーの爆発の瞬間を撮った写真の表紙を開くと、見返しに「大石又七」の署名と印がありました。テレビ画面で見た大石さんの実直さが、そのまま表れたような筆跡でした。先週木曜日、3月1日の日に終日、この本を読みつづけました。そこには、日米両政府によるビキニ事件隠蔽と、それに抗してビキニ事件の真実を伝えようとする大石又七さんの苦闘の歴史が、詳細に語られています。

 事件当初、専門家たちは放射能の人体に及ぼす影響について、極めて楽観的な見通しを発表しました。
 「今の程度のものでは、かなりの大きさに池に、赤インキを何滴かこぼしたくらいのもので、これが動いている水に消散するという表現が、もっともわかりやすかろう。大洋の水の量の大きさと、その抱擁力の大きさを、海に育まれているわれわれは知るべきだ」(東大水産学・桧山義夫教授)
 「放射能はたいしたことはない、マグロは食べてよろしい。患者は1,2ヶ月で治る」(東大放射線医学・中泉正徳教授)
 「今の程度の放射能なら永久に飲んでも害はないと思う。ラジウム泉を飲むつもりで飲みなさいとすすめたいくらいだ」(阪大・浅田常三郎教授)
  私たちは、3・11福島原発事故でも、ほとんど同じような経験をしました。原子力共同体のなかにあった専門家たちは、楽観論の権化となって、多くの被災者や市民から、顰蹙を買いました。ただ、ほとんどの政治家と官僚たちは、むしろ彼らの楽観論に依拠した対策をとるばかりでした。大石さんの歯軋りする音が、聞こえてくるようです。

 アメリカ側の対応は、どうだったのか。
 「2,3人の漁師は、2,3週間、長くてもせいぜい1ヶ月もしたら治るだろう」。しかし被災者を隔離病棟で実見して驚きます。「飛行機を提供するから、施設の整った病院に入院したらどうか」と申し出た。(広島原爆障害調査研究所・モートン所長)
  「被爆も放射能もたいしたことはない。検査の方法も適当(適切)だ」という一方で、アメリカへの輸出用マグロについては、厳正な検査を指示した。(アメリカ原子力委員会メリル・アイゼバット)
  そして最も衝撃的な発言は、原子力委員長の口から発せられました。「漁師たちは危険区域内で実験をスパイしていたこともありうる」(コール委員長)。日本の外務大臣は、「原子灰がソ連に持ち去られたという噂を聞いている」と国会で発言したと、大石さんは書き留めています。加害者による居直り強盗のような認識です。日本政府もまた、加害者側に擦り寄っていきました。

 広島型原爆の1000倍の威力をもつ水素爆弾「ブラボー」は、太平洋の広範囲な海域に「死の灰」を降らせ、マーシャル諸島の島民と日本の漁師たちに襲いかかりました。世界を震撼させたビキニ事件は、日本では、23人の乗組員の被爆、久保山愛吉さんの死、海と大気の放射能汚染、そして原爆マグロと現象し、原水爆禁止運動へと広がっていきました。
 しかし日米両政府は、200万ドルの見舞金と原子力技術の供与という政治決着を急ぎ、早々に事件に蓋をしました。被爆した乗組員には、その後の補償はなく、事件は忘れられていきました。一方、日本の原子力発電は、ここから始まりました。大石さんは、「ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ」と記しています。

 大石さんは、被爆者に対する偏見と差別、そして見舞金への妬みも重なり、焼津を出て東京へ転居し、被爆者であることを隠しつづけてきました。しかし1983年、ある中学生たちとの出会いが、大石さんを変えました。文化祭で第五福竜丸事件を取り上げるために取材に訪れた東京の中学生たちの熱意が、大石さんの「忘れたい」という気持ちを「伝えなければ」という決意に変えたのです。大石さんは、ビキニ事件について語り始めました。この本の巻末には、「ビキニ事件の講和」と題した年表が、付されています。1983年10月の町田市和光中学校を皮切りに、本書発行直前の2003年6月の愛知県江南市の市立宮田中学校までの20年間に、全国312ヶ所で、大石さんは「ビキニ事件」について語り継いできたのです。
 しかし、こうした大石さんのビキニ事件についての語り継ぎ活動の背景で、隠微な隠蔽作業が繰り返されました。第五福竜丸の「航海日誌」「漁労日誌」「海図」「無線日誌」等の、事件の鍵を握る貴重な証拠物件が、すべて行方不明となったこと。1992年、NHKスペッシャル『又七の海』の制作中に、放医研の元所長から長電話がかかってきて、NHKの番組には協力しないほうがいい、とプレッシャーをかけてきたこと。この番組の中で、久保山さんの残された臓器が取材され、保管されているところがカメラに収まっていたのが、その後、それが紛失したということ。番組放映後に元乗組員から、「仲間の死は被爆とは関係がない」「発表はプライバシー侵害だ」「まるで評論家気取りだ」と難詰する人たちがあったこと。ビキニ事件の真相を隠そうという意志は、この時点でもまだ、決して弱まっていませんでした。

 大石さんの活動は、「ビキニ事件」の語り継ぎに止まりません。第五福竜丸の乗組員仲間の救済に奔走します。ビキニ被爆者には、被爆者手帳は交付されていないし、相談窓口すらありません。仲間の小塚さんは、他の被爆者同様に、被爆後に受けた大量の輸血によってC型肝炎ウィルスに感染し、膵臓も犯されました。そこで、静岡県の平和団体などと協力して、船員保険の再適用という救済の道を探りはじめました。1998年のことです。小塚さんのC型肝炎ウィルスの感染が、被爆による大量輸血によるものと認められれば、死んでいつた仲間たちの汚名が晴らせる、と大石さんは考えました。仲間たちは、被爆が原因ではなく、酒の飲みすぎと不摂生のために、肝臓病になって死んだのだとされ、また大石さんは、放医研の医師から、家業のクリーニングの洗剤が原因だといわれた経験があったのです。「何としてもこんな汚名を晴らしたい」。
 しかし1999年、静岡県知事から「申請不適用」の回答。あらためて、県審査官に不服申し立てをしますが、「棄却」されてしまいます。小塚さんの病状は悪化し、本人は、申請を止めたいと弱音をはくようになりました。大石さんは、小塚さんを励まします。平和団体は、「小塚さんを励ます会」を結成し、最後の望みとして、厚生省社会保険審査会に申請をあげました。
 大石さんは審査会を、「無視されつづけている乗組員の実情を、国に知ってもらえるはじめてのチャンス」であり「一度しかない絶好の訴えの場」だと思いをきめて、その場に臨みました。放射能の灰をかぶって発病した時の様子、目まい、吐き気、下痢に苦しんだこと、脱毛、白血球の激減、輸血が必要だったこと、そして肝機能障害がおこったことなどを、詳細に語りました。これまで隠してきた、自分の子どもの死産のことも思い切って話しました。
 1999年11月、小塚さんの申請にたいする国の判決が下されました。「通った!申請が認められた。勝ち取ったのだ」と大石さんのペンは踊ります。この判決をうけて大石さんが、小塚さんの息子さんに送った手紙には、つぎの一文がありました。「それは福竜丸の乗組員にとどまらず、被爆した他の船、そしてこれからも起こりうる事件に対して、法律の道を開いたのです。死んでいった仲間たちの汚名も晴らしました」。ビキニ事件発生から45年、3・11の12年前のことてした。

 大石又七さんは、このように被爆体験を語り継ぎ仲間を救援する活動によって、ビキニ事件の真相を明らかにしょうとしてきました。大石さんの講話を聴いた子供たちは、数千人を数えるはずだし、NHKのドキュメンタリーを視聴した人は、さらに多数であったはずです。東京・夢の島の第五福竜丸展示館を訪れた人びとも、ビキニ事件の真実にアプローチできたはずです。3・11福島原発事故を経験した私たちは、大石さんの言葉を前に、粛然とさせられます。「私たちがビキニで体験した恐怖を今、福島の人たちが体験している。ビキニ事件のとき、放射能と核兵器の怖さを世の中に知らせるべきであったが、それが隠されてきた。その結果が、福島の原発事故につながった」。

. 3・11は、全国各地で、さようなら原発の行事が予定されています。この日は、東日本大震災で亡くなった方たちを、慰霊する日でもあります。この日の黙祷のあり方は、それぞれの人によって違い、多様なものとなるでしょう。私は、地元高崎の集会とデモに参加し、脱原発の声を上げながら、大震災で亡くなった方たちの魂に、祈りを捧げたいと思います。
 みなさんも是非、3・11さようなら原発1000万人アクションに参加しませんか。

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.「さようなら原発1000万人署名」オンライン署名のお願い

Croppedtop11 
 署名数は、4,193,872筆(2/17現在)となりました。1,000万筆達成に向けて、最終締切日は、2012年5月末まで、延長されました。「里山のフクロウ」を訪問し、この記事を読まれた方は、是非、オンライン署名をお願いします。ココをクリックすると、オンライン署名ができます。

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