長寿を祝う会
週末、地区の高齢者を対象にした長寿を祝う会が、開催されました。毎月1回開いている地域の人びとの集い「ふれあいの日」の、9月の企画です。回覧された案内には、つぎのように記されていました。
「地区に住むお爺さんとお婆さんの、長年にわたる地区への貢献に感謝するとともに、皆さんの長寿をお祝いします。」
高崎市の観音山丘陵南麓にある私たちの地区は、戸数62戸・人口190人から構成された、市内ではもっとも小規模な区(町内)会のひとつ。高崎駅から車で15分程度の距離にありながら、外部からの転入者はほとんどなく、昔から居住する人たちが圧倒的に多い農村です。しかも、たとえば12戸からなる隣り組の全戸が同姓といったように、地区には同一姓が多いため、地区内での人びとの呼称は、お互いに「○○ちゃん」となります。数少ない転入者である私たち夫婦は、20数年の実績にかかわらず、いまだに「○○さん」と姓で呼ばれます。
敬老の日を迎えるにあたり、高崎市から地区に対して、75歳以上の住民1人あたり1,500円の「敬老事業運営補助金」が、提供されました。これを財源に、「長寿を祝う会」を催すことにしました。75歳以上の高齢者は34名(男15・女19)で、地区人口の18%にあたります。これは、高崎市全体の75歳以上人口比11%と比べて、相当に高い。90台6名、80台14名、75~80は14名。「祝う会」の1週間前、34名全員に対して、各組長から「招待状」を手渡しました。地区最高齢97歳のお爺さんは、招待状を持参したとき、生椎茸をパックに入れる作業を、家人とともにしていました。34人の中には、介護施設に入っている人や病院に入院中の人、自宅で病気療養中の人など、「祝う会」に参加できない方たちも、数人いました。また、自分は「敬老」の年齢にはまだ早い、と断る人もいました。
当日は早朝から、世話役の女性8人が、地元の食材をつかって、五目寿司を作りました。男性4人は、座席を並べ、そしてお祝いのプレゼントを、きれいな赤い袋に入れました。お祝いの品は、地元スーパーの商品券(1,000円)と紅白もちと手製の鉛筆たて。紅白もちは地元農家がつき、鉛筆立ては、世話役の女性たちが、作りました。ささやかながら心のこもったプレゼントが、できました。こうして、準備万端。
参加者は、開会の30分ほどまえからぼつぼつと集まりはじめ、15分前には予定者のほぼ全員が、顔を揃えました。15名の招待者を含めた総勢31名の参加は、5月からはじめた「ふれあいの日」で最高です。毎回参加していた83歳のAちゃんは、半月ほど前に自宅で熱中症で倒れ、救急車で病院に運ばれたまま、まだ帰ってきていません。体調がよければ「でるよ」といっていた82歳のBちゃんの姿も見えません。ガンで自宅療養中のC子さんは、体調のいい6月には参加されたのですが、今回は欠席。
いよいよ「長寿を祝う会」の開会です。まず区長が、お祝いの挨拶をしたあと、招待者15名一人ひとりに、プレゼントを手渡しました。全員が几帳面に、椅子から立ち上がって、プレゼントを受け取りました。いつもは、ちょっとこわばった表情のお爺さんやお婆さんも、笑顔がこぼれます。「お年よりは、プレゼントを喜ぶよ」との世話役の話を思い出しました。
五目寿司による昼食会がはじまりました。お吸い物と漬物が添えられています。女性席は話がはずみますが、男性陣はただ、もくもくと食べます。思いのほか、皆さんの食欲は旺盛です。後片付けのとき残飯は僅少でした。
食後は、エレキの大正琴の演奏をバックに、童謡や演歌を合唱しました。演奏は、世話役の妹さんが、ボランティアを買って出てくれました。ほとんどの女性は、小声・大声さまざまですが、なつかしい歌をみんなで合唱し、楽しそうです。男性たちも、はじめは小声で歌を口ずさんでいたようですが、やがて無表情となり、楽しいともつまらないとも分からない風情。この様子を、カメラのファイダーから覗いていて、おもわず吹き出しました。
最後の演奏が終わったとき、ひとりのお婆さんがもらした一言「アア、タノシカッタ!」を、この日の「長寿を祝う会」の「おしまい」の挨拶として、おひらきとなりました。
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