かんら薪能
週末は、隣り町で催された「かんら薪能」を観ました。ことしで4年目の観賞で、私たちの秋の恒例行事となりつつあります。会場の「楽山園」は、この春完成(再建)した織田宗家ゆかりの回遊式庭園。老いた赤松のまえに能舞台が設置され、その前方両脇に、篝火が用意されています。演目は、狂言「鐘の音」、能「鵜飼」。出演は、毎年お馴染みの、宝生流の皆さん。
ひどく寒い思いをした昨年の経験から、真冬並みの外出着のうえに、ひざ掛けの毛布と毛糸の帽子まで用意して、出かけました。家内は、ポケットにホカロンを忍ばせます。はたして、狂言がおわり能が始まろうとした6時半頃、日がすっかり暮れて、寒気がズボンのすそからじわっと入り込んできました。用意周到さに胸をなで下ろしていたとき、私たちの左側5、6米の席に座っていた同年代の男性が、前屈みになり、やがて倒れ込んでしまいました。周りの人たちが、それぞれのひざ掛け毛布などを男性に掛けて、救急車の到着を待ちました。野外劇場の中央前よりの小さな騒ぎを余所に、舞台のうえでは、旅僧(ワキ)と従僧(ワキツレ)が登場し、能「鵜飼」が始まっていました。
安房国清澄の僧が、従僧とともに、甲斐国石和川のほとりに着きました。里の宿を断られた二人は、川のほとりの御堂に泊まります。里人が「夜な夜な鬼火が出る」というとおり、闇の夜に、篝火をかざした鵜使いの老人(前シテ)が、現れました。
僧は老人に殺生の罪を説教しますが、若い頃よりの仕業なので今更仕様がない、と云います。連れの僧が以前、この老人に宿を借りたことを思い出します。
鵜使いは、禁漁を犯した罪の報いで殺されたことを打ち明け、懺悔のため僧に、鵜を使った漁を見せ、やがて闇夜に消えていきました。(中入)
里人から老人の物語を聞いた僧は、川瀬の石に法華経を書き付けて弔っていると、地獄から閻魔大王(後シテ)が現われ、殺生の重い罪を重ねた鵜使いの老人を地獄に落としたが、僧を一晩泊めてもてなした功徳により、極楽へ引き上げてやろうと約束し、去っていきました。(物語の筋書きは、配布されたリーフレットから要約)
登場人物の台詞やコーラス(地謡)を聞き取ること半分程度の私にとって、能の観賞のためには、事前に台詞と謡(うたい)を予習することが、どうしても必要です。今回は、ネット検索で原文は見つからず、現代語抄訳(the能.com)を読んで観劇しました。従って、能「鵜飼」の「表徴」と「雰囲気」は能舞台で感受し、そこで語られ謡われた「意味」は、この現代語抄訳で理解したことになります。
物語は、「月夜」と「闇夜」の対照から成り立っています。
殿上人(支配者)は、月夜を愛で、闇夜を悲しむ。一方、殺生の業をいとなむ漁師は、月夜を嫌い、闇夜を喜ぶ。鵜飼は、月のない闇夜に篝火を焚いて、魚を獲るためです。老人は、その闇夜に、禁漁地で鵜飼をして土地の者たちに、殺されます。老人は何故、密漁程度のことで、殺されたのか。亡霊となった老人は、「一殺多生の理」(一人殺して多くを救う=みせしめのため)に殺された、と語ります。中世、殺生の業といわれた漁師や猟師は、一般民衆よりも低い身分にあった、とされています。死刑を執行した「土地の者」とは、当時の一般民衆としての農民を指すのでしょうか。農民が、川の民である漁師を殺した。能・狂言の作者も、もとは身分の低い階層の出身であったことを考えると、殺された川の民(漁師)への同情心が、この作品の背景にあった、といえるのかもしれません。
この鵜使い老人殺害について、ネットで「能 鵜飼」を検索していて、大変興味深い文章に出くわしました(粟谷明生稿「『鵜飼』について-闇と光の間から-」(粟谷能の会HPから))。粟谷氏は、中世史専攻の歴史学者・義江彰夫氏の説を以下のように紹介しています(要約)。
石和という土地は、もともと伊勢神宮の御厨(みくり:荘園)であった。北条殿や甲斐源氏が統治し、年貢として魚介類を伊勢神宮に献上していた。そのために、特権を持った石和御厨の鵜使いが存在し、献上以外での漁を殺生禁断の名の名のもとに厳重に禁止していた。
粟谷氏は、義江氏の論考をもとに、この老人殺害について、「利権を持っている者がその利権を脅かす行動に怒り、それを伊勢大神宮の名前を借りて戒める行動」と解釈しています。
この能の一番のみどころは、老人の亡霊が罪滅ぼしの懺悔のために、鵜使いの業を僧に見せる場面です。右手に松明を持ち、左手に鵜を繋いだ綱(扇)を持って、舞台一杯に鵜使いの業を披露します。亡霊は、驚く魚を追い回し「面白い、面白い」と戯れるように嬉々として、鵜使いの業に励みます。「今この時は、殺生の罪もその報いも、後世のこともすっかり忘れ果てて、ただただ面白い」(上記現代語抄訳から)。この段の最後に、月が出てきて闇夜が消えようとします。「おや、不思議だ、篝火が燃えているのに影が暗くなった。ああそうか、月が出てきたのだ。悲しいことよ」(現代語抄訳から)。こうして老人の亡霊は、再び闇夜へと消えていきました。
後半の、激しく打ち鳴らされる小鼓や大鼓や太鼓のリズムに合わせ、空を切る高音の笛の音を合図に、鬼面を被った閻魔大王が登場する場面は、この能のもひとつの観どころでした。舞台後背部に控える楽隊の、最高の見せ(聞かせ)場です。ただ物語は、老人を救った法華経を賛美するばかりで、前段の緊迫した雰囲気は消え、つまらない。
10分ほどで駆けつけた救急車は、途中からサイレンを止めて会場に近づき、救急隊員の無言の迅速な行動により、能講演に影響するところ僅かにとどめ、やがて意識を取り戻した男性を、病院へと運び去りました。
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