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2012年10月 6日 (土)

「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」・『前事不忘、後事之師』

 1972年9月29日、日中両国首脳は、5日間にわたる厳しい交渉のあと合意に達し、日中共同声明に調印、戦争状態の終結と日中国交の正常化を実現させました。最大の難題のひとつだった日本の侵略戦争に対する謝罪が、次のように前文に明記されました。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。

 この日中共同声明の「謝罪」にいたる交渉では、文化的・政治的背景の異なる日中首脳が、その違いを乗り越え懸命に合意に向けて努力しつづけます。この「小異を残して大同を求める」両国の政治家や官僚たちの苦闘する姿は、きわめて興味深く感動的ですらあります。しかし、その「合意」の裏(底)にひそむ日中間の違いは、必ずしも「小異」ではありませんでした。

 交渉初日の9月25日、歓迎の宴席において、日中両国の首相がそれぞれ、挨拶に立ちました。周恩来首相は、半世紀にわたる日本軍国主義の中国侵略によって、日中両国人民が損害を受けたことを指摘、「前の事を忘れることなく、後の戒めとする(「前事不忘、後事之師」)」べきだ、と挨拶しました。これに対して、田中角栄首相は、次のような挨拶を返しました。 「過去数十年にわたって、日中関係は遺憾ながら、不幸な経過を辿って参りました。この間わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私はあらためて深い反省の念を表明するものであります。・・・・しかしながら、われわれは過去の暗い袋小路にいつまでも沈淪することはできません。私は今こそ日中両国の指導者が、明日のために話し合うことが重要あると考えます。・・・」。この「迷惑(添了麻煩)」発言のとき、拍手はとだえ中国側はどよめき、緊張感が走りました。

 周恩来挨拶のキーワードが「前事不忘、後事之師」だとすれば、田中角栄のそれは、前段が「迷惑」と「反省」、後段が「過去」と「明日」となります。この前段の「ご迷惑をおかけした」との発言が、発言と同時に中国側に強い反発を引き起こし、後に「迷惑事件」として記憶されることとなります。ここではまず、両者の挨拶で好対照となった考え方の違いについて、取り上げます。周恩来の「前事不忘、後事之師」と田中角栄の「過去」「明日」発言についてです。
 周恩来は、未来のために過去を忘れるな、といったのです。これに対して田中は、過去は忘れて未来を語ろう、と返しています。このことについて竹内好は、日中国交回復直後に書いたエッセー『前事不忘、後事之師』(「中国を知るために」第三集所収)に、次のように書いています。
 「過去を問わぬ、過去を水に流す、といった日本人にかなり普遍的な和解の習俗なり思考方法なりは・・・普遍的なオキテではないことを心得て、外に向っての適用は抑制すべきである。・・・漢民族は、伝統的に記録を大切にする民族である。たとえ自分に不利なものでも、後世の史家の判定にゆだねるために記録を保存する習性がある。」
 竹内の指摘した「過去を水に流す」という日本人の習性は、後々まで変わることなく引き継がれ、今日まで至っています。共同声明の「反省」の延長上にある「河野談話」や「村山談話」がいま、「過去を水に流す」ことを恥じない政治家たちによって、見直されようとしています。
 
 そして、田中の「迷惑」発言。交渉で問題となったのは、こちらのほうでした。  
 2日目の首脳会談冒頭、周恩来は厳しく批判しました。
 「田中首相の「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われないからである。」
 竹内好は、「「迷惑」は軽すぎるが「麻煩」はもっと軽い。・・・「麻煩」は・・・人に迷惑をかけたときにも使えるが、そのほかに自分がめんどうくさいとき、または処理しにくい状態の形容などにも使えるアイマイ語である。よりによって、こんなアイマイ語に訳したところに、日本外務省の頭の程度があらわれているのかもしれない」と憎まれ口を叩いている(『迷惑』「中国を知るために」第三集所収)。
 では外務省は、どのような意図で田中挨拶に「迷惑」という言葉を選び、しかもその中国語への翻訳を「麻煩」としたのか。田中挨拶の原稿を書いた外務省・中国課長の橋本恕は、08年の服部龍二氏のインタビューに、次のように答えています。
 「日本が敗戦国で、中国が戦勝国だということは、みんな理屈ではわかっている。けれど日本人の大多数はね、その当時も現在も、アメリカと戦争して敗けたのだと思っている。中国と戦争して敗けたと思ってないのだよね。日本軍が中国にひどいことをしたと率直に認めなければならんけれどね。しかし、日本民族の矜持をなんとしても保てる努力がしたい。そういうつもりで書いているものだから、大平外務大臣も、田中総理も、まったく修正しなかった。」(服部龍二著『日中国交正常化-田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦』中公新書2011刊)
 過去を水に流した日本人は、20数年前の史実にすら、頬被りをして直視することを怠った、ということでしょう。 外務官僚はそのように考え、「迷惑」(「麻煩」)という言葉を確信的に使ったのです。日本民族の「矜持」も、「迷惑」(「麻煩」)という言葉と同様に軽く、地に落ちたというべきです。

 周恩来の「迷惑」(添了麻煩)発言批判に対して、田中がただちにおこなったという釈明内容が、本人の帰国報告や同席した中国側要人の回想録から、明らかになっています(ただ、外務省記録にはない)。
 田中の釈明。「ご迷惑をかけたという日本語の意味は、・・・"ごめんなさい"という程度のものではない。私は誠心誠意を込めて、申し訳ないという心情をそのまま表現した」。
 姫鵬飛外相の回想。「田中は、「日本語で『ご迷惑をかけた』とは誠心誠意の謝罪であり、これからは同じ過ちは犯さないので許してほしいという意味である。より適切な言葉がおありなら、あなた方の習慣によって改めてもよい」と釈明した」。(この項、服部龍二著『日中国交正常化』から) 
 この田中釈明は、①「迷惑」という言葉の意味は日本語と中国語で異なっていること、②日本語の「迷惑」は、「非常に強い気持ちで反省しているときにも使う」ということ、さらに③中国語に適切な言葉があれば、中国の習慣に従って書き改めてもよい、とまで発言したことを明らかにしています。「ご迷惑をおかけした」という日本語が、はたして、例えば「三光作戦」(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす)の犠牲者に対する謝罪の言葉として、適切か否かは、論ずるまでもありません。日本語の「迷惑」よりもやや軽いという「添麻煩」という翻訳が、必ずしも誤訳だったとは思えません。しかし、中国研究家の矢吹晋氏は、「迷惑」という日本語に「誠心誠意の謝罪」という意図を込めた田中の真意が、周恩来はじめ中国側に正確に受け止められ、ついに侵略戦争に対する謝罪問題は解決した、と指摘しています。(矢吹晋稿『日中相互誤解の濫觴(ランショウ)-闇に消えた田中角栄・毛沢東会談の真実』より

 「迷惑問題」は一見落着し、9月27日の田中・毛沢東会談(毛沢東による接見)では、次のようなやり取りが交わされました。(上記の矢吹論文より)
 毛主席:あなたがたは、あの「添麻煩」問題は、どのように解決しましたか。
 田中首相:われわれは中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています。(いうまでもなく共同声明に盛り込む文言を指している-矢吹氏の注)
 毛主席:若い人たちが、ご迷惑(添了麻煩)をかけたという表現は不十分だといってきかないのですよ。中国では女性のスカートに水をかけたときに使うことばですから。
 田中首相:日本ではことばが中国から入ったとはいえ、これは万感の思いをこめておわびするときに使うのです。
 毛主席:わかりました。迷惑のことばの使い方は、あなたの方が上手なようです。
 こうして毛・田中会談は終了し、別れ際に毛沢東が『楚辞集註』(ソジシッチュウ)6冊を、田中に贈りました。この贈り物の意味を矢吹は、次のように解釈しています。
 「この本には、「迷惑」という2文字の中国における古典的な使用法が示されている。中国語「迷惑」の意味は、現代においても変わっていない。毛沢東は、日中両国の文化がかくも異なったものであることに興味を感じたからこそ、中国文化における「迷惑」の使い方の一つの証拠として、この本を贈り物に選んだのではないか。」(手元の中国語辞典では、「迷惑」mihuo まどう、まどわす、魅する、とあります)
 また矢吹は、この本のタイトルが沈尹黙という著名な近代の書法家によって書かれたものであることから、『楚辞集註』贈答の意味を、さらに深読みします。
 「沈尹黙は青少年時代に2度も日本に遊学しており、さらに抗日戦争期における行動も含めて、この人物もまた中日文化交流の深さを体現する人物の一人である・・。こうして『楚辞集註』という贈物は、日中両国の文化交流と摩擦を象徴するものとして選ばれたのではないか」。しかも、これだけ深い思い入れ込めた贈り物にかかわらず、中国側は一切このことに触れずに手渡したことを、矢吹氏は、「まことに「東洋的」な優雅な作風というべきである」と賞賛します。

 こうした交渉経過を見ていくならば、田中角栄と大平正芳、毛沢東と周恩来、これら日中両国首脳の日中国交正常化にむけた並々ならぬ決意と情熱を、強烈に感じます。その両者の情熱と決意が、共同宣言前文の侵略戦争謝罪の文章へと結実したことを、私たちは想起すべきです。再び、前文の謝罪文を記します。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。

 日本の侵略戦争謝罪と両国の和解から40年、私たちはあらためて、「前の事を忘れることなく、後の戒めとする」(『前事不忘、後事之師』)教訓を、心に深く刻まなければならない、と強く確信します。

 追記:広辞苑では「迷惑」は、①どうしてよいか迷うこと ②困り苦しむこと。難儀すること ③他人からやっかいな目にあわされて困ること、と3つの意味が付されています。「ご迷惑をおかけした」は、第3義にあたります。やはり、日本語常識から考えて、「誠心誠意の謝罪」というのには、いささかの無理があります。40年前の日中国交正常化交渉の中国側スタッフには、日本語に堪能な人たちが多数いたことは、間違いないと思います。ここは、毛沢東・周恩来サイドの譲歩と妥協があったと考えるべきでしょう。そして、田中・大平が、「迷惑」発言から出発しながらも、度重なる交渉のすえ、「責任を痛感し、深く反省する」と決意するにいたったことの意味も、やはり重いものとして記憶されるべきでしょう。侵略の歴史とともに、この田中・大平の決断こそまさに、『前事不忘、後事之師』の精神で、今思い起こすべきだと思います。

 

 

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コメント

40年前先人達が熱い思いと大局的な大人の判断をしながら築いた日中関係はどうなってしまったのでしょうか?お互いが儒教の教えを精神的なバックボーンとする隣人同士でありながら先輩格の中国の日本に対する最近の狼藉ぶりは目を覆うものがあります。儒教の徳目の一つに「礼節」がありますが愛国無罪なるスローガンはそれとは正反対のものでありとても品性の低い言葉ではないでしょうか。戦後蒋介石は「暴には徳をもって酬いる」と言って日台関係を築いたと言われ、毛沢東や周恩来は大人の判断をしながら国交回復をしてきました。江沢民の時代に反日教育が高まったと言われるがそれは資本主義化が進む中で国内の権力闘争の兆しに対応するものであり、今またそのような状況になっているということでしょうか。中国の諺に「他人に騙されるな」と言うものがあるようですが我々は「嘘をついてはいけない」と教えられてきたが彼我の違いはなんなのでしょうか?日本では儒教の教えを武士道精神で昇華してきたと思うが彼の国は中華思想によって夜郎自大の国になってしまったのでしょうか?もちろん我が国も経済至上主義によっていささか変になっているが経済成長至上主義での付き合いは長続きしないことを肝に銘じなければと思うのであります。

コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、中国の一部の人びとによる暴力的な「反日運動」には、目を背けたくなります。そして、彼らを挑発しつづけた私たちの国の政治家とマスメディアに対しても、「狼藉」を働く中国の人たち同様に、強い嫌悪感を覚えます。石原都知事が仕掛け、野田首相が国有化でこたえ、安倍氏と石破氏が「毅然!」と絶叫した様相は、およそ平和憲法の精神に遠く、限りなく戦争へと国民を駆り立てていると、恐怖します。

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