映画『希望の国』-園子温監督のからのメッセージ-
一昨日、園子温監督作品『希望の国』を観ました。
福島原発事故の数年後、ふたたび長島県において、大震災と原発事故が起こり、人びとは、福島のときと同じように、放射能から逃げ惑います。そして、月日が過ぎてゆきます。
「日常」を戻してしまった街なかを、ひとりの防護服をまとった妊婦が、歩道をゆき、スーパーで買い物し、産婦人科で検診をうけます。このため彼女は、人びとから嘲られからかわれます。しかし、胎内のわが子を、放射能から守りぬく決意をした妊婦は、毅然としてたじろぐことはありません。医者は彼女を、放射能恐怖症と診断し、日本中、放射能に汚染されてない場所はない、と告げます。酪農家の義父の強い命令で、妊婦は夫とともに、さらに遠方へと避難します。ふるさとを後にして高速道路を走り、大都会を通り過ぎ、ある海岸に着きます。若い夫婦は、明るい太陽の下、笑顔を取り戻します。きれいな空気を胸一杯に吸い、足裏の砂浜の快い感触を楽しむ妻と、その様子を眺めてこころを安らげる夫。そこに突然、「ガーガーガー」というガイガー・カウンターが、鳴り出します。
酪農家の父は、20キロ圏警戒区域の境界のすぐ外にあって、認知症の母とともに自宅に留まりました。老夫婦は、役所の再三の避難勧告を拒み、30頭ほどの乳牛を飼いつづけます。母は、庭に花を植え、父と二人だけの穏やかな生活を、にこやかに過ごします。ただ、ときおり思い出したように、「帰ろう~よ」と父にねだります。原発の危険性を危惧しつづけてきた父は、ついにその時がきたことを悟り、若い息子夫婦を遠方へと避難させたあと、犬を放ち、乳牛たちを猟銃で射殺し、そして、妻とともに自ら命を絶ちました。
バイク好きの若いカップルが、警察の阻止線を突破して警戒区域内に侵入し、両親を捜します。ふたりが、大津波で廃墟となった街でみたのは、ビートルズのレコードを探してさ迷いつづける、子どもの姿を借りた大人たちの亡霊でした。歩きながら子どもたちが、つぶやきます。「これからの日本の国は、イチ、ニッ、サンではなく、イッポ、イッポ、歩くんだよ」。
最後のシーンで、若いカップルが廃墟の街を、「一歩、一歩、一歩」と、力強く声を掛け合いながら、一緒に前へ進んでいきました。
たとえば、映画『希望の国』から、私の心に残ったシーンを再構成して物語ると、このようになりました。この物語から、園子温監督のメッセージをどのように読み解けばいいのでしょうか。
映画『希望の国』は、福島原発事故後にもかかわらず、再稼動した他所の原発が、再び起こした過酷事故を描きます。日本列島のどこもが、高濃度の放射性物質に汚染されてしまいます。しかし、人びとは最早、こうした事態を「異常」とは認識していません。身の回りの放射能汚染は、多くの人びとにとっては「日常」なのです。放射能汚染に慣れて、無関心となったのです。だから、防護服に身をまとった妊婦は、放射能恐怖症という病んだ人であり、人びとの平穏な「日常」を破る異形の人と化すのです。では何故、こうした国が『希望の国』なのでしょうか。これではまるで、『絶望の国』ではないか。
「日常」にある人びとの揶揄・嘲弄のなか、敢然と、妻の胎内の子どもを守ろうと行動する若い夫婦の決断と勇気に、希望を見出します。
押し寄せる放射線の恐怖を受け入れ、避難よりも妻の日常性-認知症の妻にとっての避難所生活は困難を極める-を選択した夫の、妻への深い愛情に、希望を見出します。
そして、大震災と原発事故の絶望的な悲しみから、一歩踏み出し始めた若いカップルの生命力に、希望を見出します。
しかし、ガイガー・カウンターの警告音と猟銃の発した銃弾音が、これらの希望を吹き飛ばしてしまいました。
認知症の妻がくり返す「帰えろ~よ」という言葉について、考えます。帰るべき自宅に居ながら、「帰えろ~よ」と夫にねだります。そんなある日、妻は娘時代の浴衣を着て警戒区域の中に入いり、放置された牛たちの間をぬって、さ迷いつづけます。妻の不在に気づいた夫は、懸命に妻を捜しつづけ、ついに廃墟となった街のなかで、ひとり盆踊りを舞う妻の姿を発見します。老夫婦の悲劇的事件は、このあとに起こりました。
こうして、妻が帰っていこうとした時代あるいは場所には、原発はなかったはずです。園監督は、妻の「帰えろ~よ」という科白に、「原発のない社会こそが希望の国」だという気持ちを込めたのでしょうか。しかし、日本が原発のない国であることは、過去にはあっても、現在と未来にはありません。たとえ脱原発に向けて廃炉になっても、超高線量の放射性物質の付着したスクラップと放射性廃棄物は、半永久的に残ります。10万年、あるいは100万年もの間、原発の桎梏から解放されることは、ありません。ただ、未来への希望は、決して失いたくはない。そのために、日本の政府は、全ての原発をただちに廃炉にし、放射能汚染のレベルを、現在値をもって最高とすべきあらゆる努力を払うべきです。このようになったとき初めて、私たちは、日本国を「希望の国」として実感できるようになるのかもしれません。
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