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2013年1月16日 (水)

ヨアヒム・ラートカウ著『ドイツ反原発運動小史』

 ブログ『里山のフクロウ』では、「ドイツからの希望のメッセージ」をテーマとした記事を、一昨年に2回、アップしました。福島原発事故直後に、脱原発に踏み切ったドイツ政府と連邦議会の決断を、私たち日本人に対する「希望のメッセージ」として受け止めたものです。
 最初の記事は、メルケル首相の素早い脱原発決断から連邦議会の圧倒的多数での承認までの経過を、ベルリン在住のジャーナリスト梶村太一郎さんの報告を引用しながら、紹介しました。2回目の記事では、メルケル首相が諮問した「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の報告書『ドイツのエネルギー転換 未来のための共同事業(日本語訳)』を要約しました。

 こうして到達したドイツの脱原発は、福島原発事故が強烈な動機であったとはいえ、一朝一夕になったものではありません。40年間にわたり粘り強く続けられてきた反原発運動の貢献を見落とすことはできません。ドイツを代表する環境史家、ユアヒム・ラートカウ氏の著書『ドイツ反原発運動小史-原子力産業・核エネルギー・公共性』(みすず書房、2012/12刊)は、この間のドイツでの反原発運動の歩みを、簡潔に描写します。(      )内の記述は、主にブログ筆者による。

 まず著者は、反原発運動の起源はアメリカにあり、アメリカでの経験と情報(知識)が、ドイツの反原発運動にとって決定的に重要であった、と指摘します。
 1958年、サンフランシスコ北部ボデガ湾の原発建設計画に対して、ボデガ湾の美観をめぐる憂慮から始まった反対運動は、やがて地震の危険性(1906年サンフランシスコ大地震)を論拠にして、成功しました。世界で最初に成功した反原発運動です。
 1966年、アメリカで核エネルギーの歴史の転機となる事件が起こりました。原子炉の暴走に備えた緊急冷却装置の信頼性に疑問が生じ、このため、レイヴンズウッドの原発計画が中止されました。原発の「減速材」による連鎖反応の減速作用には絶対的な信頼をおくことができないことが判明したのです。その後の反原発運動の発生と合理性の根拠は、このことに大きく依拠します。
 この事件は、ドイツにおいて「ズーパー・ガウ」(Super-Gau)―「最大想定事故」を超える大惨事―という思考を促し、反原発運動に新たな急進性を与えました。(3・11直後、ドイツのメディアでは、この言葉が「氾濫」しました)
 1969年、アメリカの原野保護運動のデイヴッド・ブラウワーは、国際的環境組織「地球の友」を創設し、核技術に対する闘争を始めました。「地球の友」のドイツ支部創設者ホルガー・シュトロームは、アメリカの情報に基づいて、ドイツにおける初の包括的な反原発論を著し、ドイツの反原発運動の聖書の役割を果たします。
 こうして、アメリカの知識=情報は着実にドイツ社会に伝達され、反原発運動に決定的な影響を与えつづけました。

 ドイツにおける本格的な反原発運動は、1968年のヴュルガッセン原発反対闘争に始まります。この闘争は、法廷を中心に戦われました。そして1972年、連邦行政裁判所(最高裁)で、「ヴュルガッセン判決」を勝ち取りました。59年制定のドイツ原子力法第1条―核技術の推進と安全性保証を同等に並置していた―を、安全優先に解釈したのです。それ以後、この判決は、反原子力陣営にとって強力な法的ポテンシャルを生み出しました。
 1975年には、農民・ブドウ園経営者・学生の連合がヴィール原発の建設予定地を占拠、そして警察部隊の暴力的排除のあとのメディア報道にともない、2万8千人もの抗議者が殺到し、ドイツ初の反原発キャンプを作りました。
 1977年、フライブルグ行政裁判所は、建設許可条件として、原子炉圧力容器の破砕防御のための鉄筋コンクリートの覆いの設置を求めました。この条件は、原発建設費を高額とするため、電力会社は計画を断念しました。この反対運動を背景に、原子力担当の連邦研究相のハンス・ロイシンクは、「残余リスク」という概念を生み出しました。(残余リスクは、「技術的に考えられるあらゆる対策を講じても、完全にはなくすことが出来ないリスク」と定義されますが、メルケル首相が諮問した倫理委員会は、「原発における『残余リスク』は社会全体でも負い切れない」と判断しました。ドイツでは、度々言及される重要な概念です。)
 
 ドイツの反原発運動の歴史的頂点は、ゴアレーベン計画(世界最大の再処理工場建設計画)への抗議でした。1977年、非暴力主義の反原発運動が農民と連帯し、安全性とともに景観維持を求める環境運動へと進化しました。そして、オルタナティブな生活様式を求めた「ヴェントラント自由共和国」を生み出し、原発反対運動が楽しいものになりました。ゴアレーベンのあるヴェントラントは、旧東ドイツ側につき出した西ドイツ側の自然豊かな土地です。このゴアレーベンの運動に関して、著者は訳者との対談で、ある写真を見せて次のように語ります。
 写真は、反原発運動の支持者たちが木を抱きしめて、警察の排除に抵抗しているものです。「この写真は、反原発運動と昔からの森林保護との結合を示す象徴的なイメージとなりました。・・・この時点から反原発運動は自然保護の支持者たちと連帯するようになったのです。・・・古いドイツのロマン主義的森林観と反原発運動がそこで合流したのです。」
 そして1979年3月末、国際ゴアレーベン・シンポジウムにおいて、ニーダーザクセン州のアルブレヒト首相は、「政治的に実現不可能」としてゴアレーベン計画を撤回しました。原子力産業の歴史的敗北でした。一方で、エネルギー産業界では、「敵のお陰で史上最大の誤った投資をせずに済んだ」という名文句が、広がりました。
 こうしてゴアレーベンの反原発運動は成功を収め、1979年はドイツの反原発運動の大きな転換点の年となりました。その背景には、次ぎのような要因がありました。
 ①1977年、カーター政権による、核拡散懸念からの増殖炉と再処理工場建設反対表明。
 ②1979年3月28日、スリーマイル島原発過酷事故の発生。
 ③ヴェントラントの農民のようにキリスト教民主同盟に近い保守層の反対。
 ④電力会社にも、再処理施設に対する利害関心はなかった。
 ⑤1977年にドイツ赤軍のテロが頂点を迎え、原子力施設に対するテロ懸念が生まれる中、原子力コミュニティーの守護神といわれたカール・フリードリッヒ・ヴァイツゼッカー(原子力物理学者)は、核エネルギーに距離をとり始めた。

  1980年代に入ると、核軍備増強に対する平和運動の高まりを背景に、反原発運動に民事用と軍事用の核技術の結びつき、という新しいモチーフが加わりました。それまで西ドイツでは、原子力研究者たちによる「ゲッティンゲン宣言」(1957年)― ドイツ連邦軍の核武装に反対―によって、民事用核技術は「平和的な原子力」として軍事用とは区別されていました。しかし、ウラン濃縮施設や再処理施設の建設計画を通して、民事用と軍事用の核技術が強く関係しあっていることが認識され、反原発運動と平和運動が結びつきを強くしました。

 1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故は、ドイツの幅広い住民層に、原子力に対する深刻な不安を蔓延させました。核技術者を含め、核技術を拒否する意見が、あっという間に多数派となりました。再生可能エネルギーへのシフトが真剣に議論されましたが、その可能性はいまだ不確かなもので、エネルギーの大転換はすぐには起こりませんでした。しかし、その影響は極めて大きく、1991年、カルカー高速増殖炉の建設断念へとつながりました。 
 
 以後ドイツでは、原子力は単なる「過渡的エネルギー」とみなされます。核エネルギー反対陣営の抗議目標は、使用済み核燃料の最終処分施設への輸送に集中することになりました。

 ユアヒム・ラートカウ著『ドイツ反原発運動小史』の概要は、以上のとおりです。
 ドイツからのメッセージに、日本の「脱原発」の希望を託した私たちは、昨年の夏、民主党政権の脱原発に対する及び腰に苛立ち、冬、政権を取り戻した自公政権の原発容認に、強い憤りを覚えました。時計の針を3・11以前に戻そうとする原発推進派のあらゆる策動に対して、強固にかつ持続的に、「No!」の声を出しつづけなければなりません。そして、ドイツの反原発運動の成功体験をよく噛み砕き、わが物としていく努力が、いま求められています。そんな意味で、ラートカウの『ドイツ反原発運動小史』は大変、示唆に富んだ歴史書だと思います。一読、おすすめしたい。

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