ドレフュス事件とアルザス
夏のアルザス・ロレーヌへの旅行を思い立ち、書棚から大仏次郎著『ドレフュス事件』(朝日文庫)を取り出し、読みました。全ヨーロッパを震撼とさせたという冤罪事件の主人公ドレフュスが、アルザス出身だった、というかすかな記憶をきっかけに、再読したもの。
1894年夏、フランス陸軍の機密がドイツに漏洩されているという情報が、パリのドイツ大使館にもぐりこんだスパイから、もたらされました。参謀本部は、捜査の結果、アルフレッド・ドレフュスというアルザス生まれのユダヤ系の砲兵大尉を逮捕しました。証拠の手紙の、民間鑑定人は白としましたが、警察鑑定人が強引に黒とした筆跡鑑定が、決め手となりました。新聞各社は、反ユダヤを煽る記事を書き、世論は「ユダヤ人売国奴!」「殺せドイツスパイ!」と激昂しました。軍法会議は、ドレフュスの軍籍剥奪・終身禁固の判決を下し、彼は、南米フランス領ギアナの沖合いにある悪魔島の監獄へ送られました。
ドレフュスは一貫して無罪を主張し、妻や兄は再審を求め真犯人を追い続けました。1896年、新しい情報部長ピカール中佐は、スパイがドイツ大使館から盗んだ紙片のなかから、ハンガリー系の軍人エステラージー少佐が真犯人であることを、突き止めました。しかし軍首脳は、「軍の尊厳のため」と称して再審を認めず、逆にピカール中佐をアフリカへ左遷しました。
1898年1月13日、パリの小新聞オーロール朝刊に、エミール・ゾラの「余は弾劾する」という共和国大統領宛の弾劾文が、掲載されました。ゾラは、軍法会議の愚劣さと犯罪性を告発し、ドレフュス事件が冤罪であることを実証するとともに、これに関わった軍首脳を実名で弾劾しました。もちろん、彼らから名誉毀損で告発されることを覚悟のうえでの行動でした。
世論は沸騰しました。一方で、国粋主義者たちが、「ゾラを出せ!セーヌ河へ叩き込め! 」と叫び、他方で、学生や知識人たちがゾラのための請願署名を集めました。国論は真っ二つに割れたのです。そして、ゾラは告発され裁判となりました。この裁判でのゾラの最後の発言を、引用しておきます。
「ドレフュスは無罪であります。自分はそれを誓う。命も名誉も賭けます。この厳粛なる時に於いて、人間の正義を代表するこの法廷に立ち、・・・全仏蘭西、全世界の前に立ち、私は誓います。ドレフュスは無罪であります。・・・。
総てが私に反対しているようであります。上下両院も、文武両制も大新聞も、更にこれら大新聞に毒された輿論も。私の味方は思想だけであります。真理と正義との理想だけであります。しかしながら、私は驚ろかない。やがて私が勝つだろう。私が我が国が虚偽と不正を除くように願ったばかりでした。その私は今ここで有罪を宣告されるであろう。然しながら後日仏蘭西はその名誉を救うように私が微力を尽くしたことで、私に感謝するに違いない。」
はたして、エミール・ゾラは有罪となり、1年の禁固と3千フランの科料を課せられました。「被告側は悪戦苦闘を重ねた戦場から血みどろになって出て来た。ゾラも、ラボリ弁護士も、クレマンソオ兄弟も、画家のモネも、セザンヌも」。一方、裁判所前の愛国的群集は、怒涛のように「仏蘭西共和国万歳」を叫び、「軍隊の名誉が護られ、祖国の危機を脱した」と悦び合いました。
その後、ドレフュスを無罪とする証拠が明らかとなり、再審となる軍法会議が開かれましたが、依然、ドレフュスの有罪は覆りませんでした。しかし、ドレフュスと支援者たちが無罪を訴え続けるなか、1906年になってついに、無罪を勝ち取ることが出来ました。ドレフュスが逮捕されてから、12年の歳月が経っていました。
ドレフュス事件の概要は、以上のとおりです。
この本を注意深く読んでいくと、ドレフュス事件とアルザスとの深い関係が、注目されます。何よりも、この事件に関わった人たちに、アルザス出身者が多いのです。まず、被害者アルフレッド・ドレフュスと、兄にして最大の支援者マチウ・ドレフュス。著者は次のように記します。
「アルフレッド・ドレフュスは、アルザス州のミュルーズの生まれで、四人兄弟の一番末だったが、アルザスが独逸に割譲せられ、独仏いずれの国籍を採るかは住民が自由に選択することになったので、一番上の兄が家を継いで故郷に残り、アルフレッドは二人の兄とともに好んで仏蘭西の国籍に残って、そのため巴里へ移住してきたのである。故郷の土地が敵に奪われ仏蘭西人でいる限り再び住むことが出来なくなったと云うのが、青年の心を強く動かさずにはいなかつた。アルフレッド・ドレフュスは軍人を志願したし、目的を達してからも熱心な復讐戦の主張者になった。」
真犯人エステラージーを突き止め、再審にも大きく貢献した情報部長ピカール中佐も、アルザス出身者でした。ユダヤ人嫌いで通っていましたが、非常な秀才で、もとから手腕を嘱目されていた人物でした。ドレフュス無罪の最大の功労者のひとりと云って良い。
ドレフュスを支援した数少ない政治家に、上院議員のシュウレ・ケストネエがいました。彼は、総理大臣や陸軍大臣に会って、真犯人がエストラージーであることを勧告しました。彼もやはり、アルザスの出身でした。
ピカール中佐もシュウレ・ケストネエも、ドレフュス兄弟とともに、世論によって「売国奴」と罵られました。
そもそもこの事件のきっかけとなつた、パリのドイツ大使館に潜り込んでいたブリュッケルというスパイもまた、アルザス出身者でした。アルザス出身者に、ドイツ語に堪能な者が多かったことを想像させます。
そしてもうひとりのアルザス人が、この本の最後の方に出てきます。ドレフュスの兄マチウの古い友人で、アルザスの実業家サンドスは、機密漏洩事件の当事者、ドイツ外交官シュワルツコッペン大佐が、断じて自分の相手はドレフュスでなかった、と証言をするように、手紙を書いたり会って話しをし、ついに大佐から誠意ある返事を貰いました。いまはドイツ国民となったアルザス人の面目躍如といったところです。
このように見てくると、ドレフュス事件とアルザスとの関係は、抜き差しならぬ深さを感じさせます。ドレフュス兄弟とその友人の関与は、冤罪犠牲者の縁故者ゆえに、3人がともにアルザス人であることは、特に意味を持ちません。スパイがアルザス出身者であったことは、ドイツとアルザスの関係を考えた時、あるいは必然性があるのかもしれない。すくなくとも、このスパイがドイツ語が堪能だったことが意味を持ちます。しかし、ピカール大佐と上院議員シュウレ・ケストネエの行動は、どのように考えたらいいのでしょうか。偶然彼らはアルザス出身者だったとするのか、あるいは、同郷人ドレフュスへの同情心からと推定するのか。著者は何らこの質問に答えてくれません。ただ、フランスにおけるアルザスの歴史的・文化的な特異性が、浮き上がってくるばかりです。
ドレフュス事件の背景には、ユダヤ人に対する蔑視とともに、ドイツ人に対する憎悪がありました。普仏戦争(独仏戦争1870-71)に敗北して首都パリを蹂躙され、屈辱的な降伏をしたフランス人は、ドイツ人を憎悪する新しい民族的な伝統を作り上げていた、と著者は指摘します。そして、「仏蘭西の空には、「復讐」「アルザス・ロレーヌの回復」と、二つの相言葉が赤く書かれていた。マルセイエーズの歌がこんなにも仏蘭西人の血を沸かしたことも大革命のとき以来のことだった」とつづきます。そこに陸軍機密漏洩事件が起こり、フランス人のドイツ人に対する憎悪は一気に、燃え上がりました。
フランス東北部のアルザス地方は、ライン河をはさんで、ドイツとの国境地帯に位置します。17世紀来フランス領でしたが、1871年の普仏戦争の結果、ロレーヌとともにドイツ帝国に併合されました。そして、第一次世界大戦後は、戦勝国フランスに返還されますが、1940年から45年までナチスによって再びドイツに併合され、そして戦後、三度フランスへと返還されます。アルザス・ロレーヌ地方は、このように幾度となく、フランスとドイツの間を揺れ動いてきた歴史を持っており、フランス人にとってもドイツ人にとっても、憎悪と分断を意味する地域でした。それが第二次世界大戦後、フランスとドイツの和解と統一を象徴する地域へと変容し、いまやヨーロッパ統一の中心地となったのです。
ドレフュス事件の顛末を大仏次郎作品で読みながら、アルザス・ロレーヌ地方の苦難の歴史のひとこまを学びました。
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