大仏次郎の『ドレフュス事件』と軍国主義批判
ひきつづき、大仏次郎著『ドレフュス事件』について。
この本において大仏次郎は、ドレフュス冤罪事件を記録しながら、第三共和制下のフランスにおける軍国主義に対し、厳しい批判を展開しました。
「この軍国的な時代では祖国の危機と云う大袈裟な看板を見せられただけで、国民の大部分が是非の論なく味方になるのだつた。・・・(反猶太、国粋主義、所謂自由主義の諸々の)新聞もこの輿論に追従して、国旗を振りかざし、猶太禍を唱え、祖国の危機を呼号するのだった。ジャーナリズムがニュウスの発明の競争を初めたのである。この愛国的人心に投じさえすれば、創作された嘘でも歓迎されるし愛国心を刺激するのであった。」(ゴチックは引用者による)
大仏次郎がこの『ドレフュス事件』を発表したのは、1930年(昭和5年)の「改造」誌上でした。「改造」は、多くの自由主義的・社会主義的な評論を掲載していた、大正デモクラシーの精神を継承したリベラルな総合雑誌でした。さて、1930年の日本では、何が起こっていたのか。
2月26日 共産党員全国一斉検挙
4月22日 ロンドン海軍軍縮会議で、米・英・日3ヶ国軍備制限条約締結
4月25日 統帥権干犯問題発生
5月20日 共産党シンパ事件で三木清検挙される
5月30日 中国東北部(満州)の間島で、朝鮮人抗日武装事件
10月26日 台湾高山族抗日武装事件(霧社事件〉
11月14日 浜口首相狙撃され重症、翌年死亡
国内では共産党弾圧が本格化し、植民地では抗日武装闘争が頻発します。そして、政治と外交は、軍縮会議-統帥権干犯問題-首相テロと連なり、これらの事件以降、政党政治は弱体化し、軍部は政府方針や決定を無視して暴走し始めました。1931年3月には軍部によるクーデター未遂事件(三月事件)が発覚、そして関東軍は9月18日、中国東北部(満州)柳条湖の鉄道を爆破し、これを切っ掛けに戦線を拡大しました(満州事変)。まさに日本の「軍国的な時代」に、大仏次郎は『ドレフュス事件』を書き、軍国主義を批判したのです。
上記引用文中の「猶太禍」の箇所を「暴支膺懲」に置き換えれば、「新聞もこの輿論に追従して、国旗を振りかざし、暴支膺懲を唱え、祖国の危機を呼号するのだった」となり、そのまま日本軍国主義批判になります。このなかで著者が、ジャーナリズムが事実を捏造して祖国の危機を煽っている、と批判していることに注目したい。軍部・マスメディア・世論が一体となって、祖国日本の危機を呼号し愛国心を刺激して、戦争への道をひた走ろうとしている、そうした日本社会に対して、『ドレフュス事件』の著者・大仏次郎は、批判と警告を発したのでした。しかし、軍国主義の勢いは止まらず、日本は、やがて破局へとつながる、日中15年戦争へ突入していきました。
このように『ドレフュス事件』を読んでいき、大仏次郎の時代を読む先見性に強い印象を受けると同時に、その無力さに落胆します。そして、大仏次郎の日本軍国主義批判から80余年たった現在、尖閣諸島の領有権をめぐる日中対立の中で、ふたたび日本社会が、政治家とマスメディアの競演に煽られながら、ふたたび「暴支膺懲」の気分をかもし出していることに、ぞっとさせられます。
注:暴支膺懲 日中戦争時の日本軍のスローガン。「暴戻支那を膺懲す」つまり「暴虐な支那(中国)を懲らしめよ」。(Wikipediaから)
« ドレフュス事件とアルザス | トップページ | 山火事の炊き出し »
コメント