山火事の炊き出し
日曜日、2週間ぶりに竹林に入り、相棒のⅠさんとともに、竹の伐採作業をしました。20メートルを超える孟宗竹は、朝からの激しい北風にあおられて、大きく揺れ動きます。風がなく人手のある日なら、枯れた竹を燃やすのですが、この強風では危険だし人手もないので、もっぱら竹伐りに専念しました。
そのおかげで、午前中の作業で、80本近くの竹を伐採することができました。それでも、精々20m×20mの竹林面積をこなした程度で、約2ヘクタールある竹林を整備し終えるには、まだまだ先は長い。
午後、伐った竹の片付けを始めたころ、ヘリコプターが竹林の真上を、低空で旋回しはじめました。はじめのうちは、さほど気に留めていなかったのですが、ヘリの低空旋回は執拗で、まるで上空から監視されているようでした。しかし、竹を切り倒したままでは、次回の作業に差し障りがあるので、ある程度は片付けなければなりません。山仕事の経験のあるⅠさんは、妥協しません。ヘリの出す大きなプロペラ音を気にしながら、作業をつづけました。そして3時すこし前に、おおよそ、片付け作業をおえました。
来週の作業日を確認しあった後Ⅰさんと別れ、帰路に着こうとしたところ、竹林のすぐ近くの道路が、消防自動車によって通行止めとなっていました。なんと、整備中の竹林と目と鼻の先の山が燃え上がっており、懸命の消火作業中だったのです。強風下の風上にいた私たちには、消防車のサイレン音も、木々の燃える音や匂いも届かず、へり音に火事を想像することなくひたすら作業をつづけていたのです。一瞬、もしや近所の農家が焚き火したのか、と疑ったのですが、朝からの強風を考えれば、こんな日に焚き火をする農家はいないと思い返しました。果たして、山火事現場にいた私服警官は、おそらく煙草の不始末だろう、と感想を述べました。3時半過ぎ、大事にはならずに鎮火。ほっとして、帰宅しました。
夕方からは、「地区ふれあいの日」の世話人が集まって、反省と慰労の会がありました。みんなで寄せ鍋をつつきながら、この1年間の活動を振り返ろう、との趣旨でした。会が始まってすぐのこと、遅れてきたメンバーのひとりが、血相を変えて、公民館に飛び込んできました。「山がピンク色に染まっている!」。昼間の山火事が、再燃したのです。とりあえず、同席していた区3役の二人が現場へ駆けつけ、後のメンバーで会をつづけました。せっかくのご馳走も、落ち着いた気分で食べることが出来ません。現場では既に、消防署員や消防団員が再び駆け付けて、消火作業に当たっていました。大変早い対応に感心しましたが、話を聞くと、地元消防団の若者たちが、皆で晩飯を食べに行こうとしていたところに、山火事再燃の通報が飛び込んで、いそぎ現場に舞い戻ったとのこと。総勢70人もの消防隊員が、満月の明かりを頼りに、震えあがる寒風の中、消火作業にあたっていました。
やがて現場から、70人分の握り飯の炊出し要請が、反省会会場に伝わりました。ただちに反省会は中断し、最年長のE子さんの指揮の下、行動が開始されました。世話役の5人が、それぞれ1升づつの米を炊きに自宅へ戻り、それから40分ほどたって、自宅で炊いたご飯を持ち込みました。早速、握り飯づくりが始まりました。E子さんは、もたもたする若い(といっても60歳半ば)世話役を叱り飛ばしながら、自ら手を動かしながら指揮します。海苔を巻こうとしたA子さんに対しては、「そんなものいらない!」とピシャと云い、ビニール手袋を準備しょうとしたT子さんにも、「緊急時に何を云ってるの!」と語気強く叱ります。そして、たちまちのうちに、5升分150個の握り飯が出来上がり、早速、山火事の消火作業現場へ運びました。
夜の山火事が鎮火したのは、8時過ぎでした。メンバーは再び着席し、反省会を再開しました。鍋に火を入れなおし、みんなほっとして、寄せ鍋のうどんを食べました。炊き出しに素早く対応できたのは、たまたま反省会に区の世話役(3役以外はボランティア)が集まっていたからでした。消火作業の現場から、暖かい握り飯への感謝の言葉が届き、ああよかったとみんなで胸をなでおろしました。
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