マルク・ブロックのこと
フランスのアルザスに関する本を読んでいて、マルク・ブロックという歴史家のことを、初めて知りました。アルザス地域圏の主都ストラスブールの歴史を書いた本のなかで著者は、次のように書いてます。「私たちのまちにとってこの碩学(せきがく)をもったことはとても誇らしいことである」(内田日出海著『物語 ストラスブールの歴史-国家の辺境、ヨーロッパの中核』 中公新書 09年刊)。
この新書には、ストラスブール大学の教授マルク・ブロック(1886~1944年)とリュシアン・フェーブル(1878~1956年)が、『経済社会史年報』(年報=アナール)を創刊(1929年)し、戦後の歴史学に大きな影響を与えたアナール学派の礎石を築いた、と紹介されています。そのアナール学派についてウィキペディアは、次のように教えてくれます。この派の歴史家たちは、旧来の歴史学が「事件史」や「大人物史」の歴史叙述中心であったことを批判し、民衆の生活文化や社会全体の「集合記憶」に目を向けるべきだと訴えた。そして、民衆の生活に注目する「社会史」的視点に加えて、学際性の強さもアナール派の特徴とみなされている。この説明から、日本の網野善彦や阿部謹也などの著作を、思い起こします。
新書は勿論、マルク・ブロックのもうひとつの顔も、紹介します。彼は、偉大な学者であったと同時に、フランス共和主義の普遍的原理を守ろうとしてナチズムと闘った不屈の闘士でした。第1次と第2次の両大戦に従軍したブロックは、ナチス占領下のリヨンでレジスタンスに身を投じ、捕虜となった後パリ解放の数ヶ月前に、ドイツ軍に銃殺されました。病弱の妻シモーヌに宛てた「悲しみのバラード」と題した詩が残されています。(同書から第1節と第4節を引用)
わが妻よ、ああ、愛すべきわが妻よ
私は今年旅発たねばならないのだろうか
帰還なき遠き旅に
大切な君を独り残して
わが妻よ、ああ、かけがえなきわが妻よ
人が誰でもそれぞれに聞く最期の刻が
私に告げられるとき
愛する妻よ、しっかりと私のもとにいておくれ
マルク・ブロックについてもう少し知りたいと思い、彼の著書『奇妙な敗北-1940年の証言』(平野千果子訳 岩波書店 07刊)を読みました。1940年、電撃的にベルギーに侵攻したドイツ軍は、英仏連合軍をダンケルクへと潰走させます。このとき、フランス軍将校として従軍していたブロックは、「何故フランスは敗北したのか?」と自問し、この書を書き上げました。出版は、終戦の翌年1946年のことです。ここでは、フランス敗北といった主題を離れ、マルク・ブロックそのひとについて、同書から引用したい。
歴史を書き、教えることが「私の職業である」と自己紹介したブロックは、歴史家の第一の課題は「生に」関心をもつことだ、と述べます。そして「現在について考えることなくして過去を理解するのは不可能である」という警句を記します。両大戦に従軍し、レジスタンスに身を投じたブロックならではの重い発言です。
ブロックは、自分はユダヤ人であるがフランスこそが自分の祖国である、と誇らしく語ります。「私はユダヤ人である。宗教のせいではない。私はユダヤ教のみならず、いかなる宗教も実践していないのだが、少なくとも私は生まれからユダヤ人なのだ。だからといって私には誇りも恥の気持ちもない」。
「私の曽祖父は1793年に兵士だった。私の父は1870年にプロイセン軍に包囲されたストラスブールで兵役についていた。そして父はアルザス州がドイツ第二帝国に併合されると、私の二人の伯父とともに自ら故郷アルザスを離れた。私はそうした愛国的な伝統がみなぎるなかで育てられたが、いつの時代もそうした伝統を熱心に守っているのは、アルザスを脱出したユダヤ人である。今日、私をフランスから追放しょうとする者がいるとしょう。私はその結果、いずれ追われるかもしれない。・・・だが何が起きようと、フランスは私の祖国でありつづけるだろうし、私の心がフランスから離れることはないだろう。私はフランスに生まれ、フランス文化の泉から多くを享受した。フランスの過去を自分の過去とし、フランスの空の下でなければ安らげない。だから今度は私がフランスを守る番だと、最善を尽くしたのだ」。
アルザス出身のユダヤ人といえば、先に読んだドレフュス事件の被害者ドレフュス大尉がそうでした。どちらも祖国フランスに対して、並々ならぬ愛国心を抱いていました。愛国の源泉は、啓蒙思想や人権思想の結実としての「自由・平等・博愛」をうたったフランス共和主義にありました。アルザス・ユダヤ人・共和主義といった共通点が、フランスへの祖国愛となっています。
レジスタンスを共に闘ったジョルジュ・アルトマンの寄せた序文から、マルク・ブロックとレジスタンスの関係を知るうえで有用と思われる箇所を引用します。最初は、ブロックがレジスタンスに入った時のこと、二つ目は、地下活動中のある夜のシーン、そして最後は、ブロックが銃殺されたときのこと。
「私の目には、地下闘争の若い仲間モーリスが20歳の顔を喜びで赤く染めて、私に「新規加入者」を紹介したあの素敵ないっときが、今でも浮かんでくる。それは50歳の叙勲された紳士で、端正な顔立ちに銀鼠色の髪、眼鏡の奥には鋭い視線をたたえ、片手には書類入れを、もう一方には杖をもっていた。やや形式ばった時が過ぎると、間もなくこの訪問者は微笑みながら私に手を差し出し、やさしく言った。
「そう、私がモーリス君の「若駒」です・・・」。
こうして笑みをたたえて、マルク・ブロック教授はレジスタンスに入った。そして私が最後に別れたときも、この同じ笑みをたたえていた。」
「私はある夜にクロワ・ルッスに出ていた月明かりを思い出す。マルク・ブロックを送って、彼の遠い隠れ家に帰っていくところだった。その夜はとても軽やかに感じられ、私たちを取りまく重苦しいドラマがとても遠いことのようだった。それでマルク・ブロックはうれしそうに、音楽や詩について語った。危険や恐怖を忘れるためにではない。精神の優れた訓練、踏みにじられ追放され、一時は姿を消した穏やかな美を、少しは想起しょうとしてのことだつた。それらこそが人間の存在理由なのであり、それらのために、マルク・ブロックは闘っていたのだ。」
「彼が殴られ、拷問にかけられたと聞くだけで、たくさんだった。あのほっそりして、自然な品位を備えたからだが、そしてあれほど繊細で節度があって、誇り高い知識人が、浴槽の氷のような水に突っ込まれ、震えながら息をつまらせ、頬を打たれ鞭打たれ、暴行されたと知らされるのは、たくさんだつた。・・・けだもののようなナチの手にゆだねられたマルク・ブロック。フランスの尊厳と、洗練された奥深い人間性をかくも完全に体現する見本のような人、餌食となって最も浅ましい手に渡ってしまったこの精神・・・。
私たちは何ヶ月も待ったし、望みもかけていた。収容所に送られたのであろうか。まだリヨンのモンリュック刑務所にいるのだろうか。・・・何もわからなかった。そしてある日、こう告げられたのだ。「もう駄目だ。1944年6月16日、トレヴーで銃殺された・・・」。ブロックは他の何人かとならんで殺された。彼はこの仲間たちを励ましていたという。
・・・彼のかたわらで、16歳の少年が震えていた。「痛いだろうな」。マルク・ブロックはやさしく少年の腕をとって、ひとこと言った。「とんでもない。痛くなんかないよ」。そして「フランス万歳!」と叫びながら、最初に倒れた。」
歴史家マルク・ブロックは、現実のレジスタンスに積極的にコミットすることで、歴史家であることを全うしたのでしょうか。彼の警句を再び掲げ、その人生に思いを寄せます。
「現在について考えることなくして過去を理解するのは不可能である」
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