« 福島の被災地を訪ねて | トップページ | ドイツ・フランスの和解への道-ある少女の場合- »

2013年4月27日 (土)

『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から独・仏和解の道筋を読む

65879  日本と韓国・中国との関係が、領土問題や歴史認識をめぐり、冷え切っています。また、安倍内閣閣僚の靖国参拝に対して、韓国と中国の政府は、厳しく日本政府を非難しました。東北アジアにおける諸国間の和解はまたしても、果てしなく夢の彼方に、遠ざかっていくようです。

 19世紀後半から20世紀前半にかけての100年間に、フランスとドイツは、普仏戦争(1870-1871)、第一次世界大戦(1914-1918)および第二次世界大戦(1939-1945)の3回の大きな戦争を経験しました。それぞれの戦争における犠牲者は、普仏戦争(死傷者数)でフランス28万人、ドイツ13万人、第一次世界大戦では、死者数だけでフランス553万人、ドイツ439万人と膨大な数となり、また第二次世界大戦でも、ドイツ600万人、フランス58万人となりました(普仏戦争と第一次大戦はウィキペディアから、第二次大戦は『ドイツ・フランス共通歴史教科書』から)。フランス・ドイツ両国民の間に、これらの戦争によって相手国に対する抜きがたい敵対心と憎悪の気持ちが積み重なっていったことを、想像させます。
 しかし、第二次世界大戦後60数年の両国の歩みは、戦争の犠牲を記憶しつづけようとの強い意志のもとでの相互理解と和解努力によって、対立と憎しみを克服してきた歴史でした。いまだ和解に向けての端緒すら見出しえない日本と韓国・中国との関係と対照的です。

 フランスとドイツの和解の歴史に、何か学ぶことがあるのではないか、とかねてから考えていました。そして、『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』(明石書店 2008年刊)のことを知り、読んでみることにしました。この共通教科書そのものが、両国和解の象徴的意味をもっていることを知り、一層この教科書にひかれました。

 フランス語版序文に、『ドイツ・フランス共通歴史教科書』作成の経緯が紹介されています。それによれば、戦後のフランス・ドイツの和解と協力の出発点となったエリゼ条約の40周年記念にあたり、2003年1月、ベルリンに集まった両国の高校生たちが、共通歴史教科書の作成を提案し、これをうけて同年、ドイツのシュレーダー政権とフランスのシラク政権が、作成を決定しました。去る3月26日のTBS・NEWS23では、教科書検定を取り上げた中で、この共通歴史教科書が話題となり、フランスとドイツの高校生たちがこの教科書を使い、フランスではドイツ語で、ドイツではフランス語で歴史の授業をうける様子が、映しだされました。フランス・ドイツ両方の視点で歴史を見ることの重要性が語られ、そのことがヨーロッパの視点となっていく、とナレーターは語りました。しかし、この教科書が、必ずしも期待したほどの成功を収めていない現状について、ふりかえればフランスが『ル・モンド』(電子版)記事を紹介しています。

 私の関心は、フランス・ドイツ両国民が第二次世界大戦をどのように記憶してきたのか、そして両国民はどのように和解したのか、の2点にありました。1945年以後の現代史を対象としたこの共通歴史教科書では、「第2章 第二次世界大戦の記憶」と「第17章 ドイツ・フランスの協力関係は模範的な成功をしているのか?」の2章が、私の関心の拠り所となりました。それぞれの要旨を、書き留めておきたい。

 第二次世界大戦の記憶について。
 フランスについては、1940年の敗北と占領、そしてヴィシー政権(連合国側からナチスの傀儡政権と見なされた)についての記憶が、メイン・テーマとなっています。
 終戦後から1960年代にかけては、レジスタンスから生まれた政治勢力は、国民の一体性とフランスの威信を取り戻すために、「フランス全体を抵抗者として英雄視することで、占領時代の記憶や戦争捕虜の記憶、人種的理由に基づいて強制収容所に抑留された人々の記憶」を、その陰に隠してしまいました。
 しかしこの間にも、「国民の記憶の傷」を開く出来事がありました。1953年、ナチスの武装親衛隊員21人が、オラドゥール・シュル・グラヌの住民642名を虐殺した罪でフランスで起訴されました。その中に、14人のアルザス出身の青年が含まれていたのです。
 しかし、1970年代以降、「一致団結して抵抗する勇敢なフランスという雄姿が消え、占領下フランスの薄暗い、栄光とはかけ離れた姿」が現れます。対独協力がフランス国民の決断によってなされた、とするアメリカ人歴史学者の著書が、大論議されたのは1973年のことでした。
 1992年7月16日、ミッテランは大統領として初めて、ヴェルディヴ事件50周年の犠牲者追悼式典に参加しました。そして1995年同日の追悼式典では、シラク大統領は次ぎのように演説しました。
 「そうです。占領軍の狂気の犯罪にフランス人が、フランス国が手を貸したのです。53年前の1942年7月16日、450人のフランス人警官・憲兵が上長の命令に従い、ナチスの要求に応じました。・・・啓蒙思想と人権の生まれた国、人々を受け入れ保護してきた国フランスが、その日償いようのない罪を犯しました。フランスは自らの言葉に背き、保護すべき国民を死刑執行人の手に委ねたのです。・・・過去の過ち、国家が犯した過ちを認めること。私たちの歴史に影を落とす闇の時代について何も隠し立てしないこと。それはほかでもない、人間を、すなわち人間の自由と人間の尊厳を守ることなのです。」
 2000年、法律により7月16日は「フランス国家による人種的・反ユダヤ的犯罪」の追悼記念日となりました。(ヴェルディヴ事件:外国出身ユダヤ人13,152人がフランス警察により連行され、競輪場に集められた後に、アウシュビッツに送られた事件)
 以上が、フランスにおける「第二次世界大戦の記憶」の章に記述されたことです。この記述を読んだフランスとドイツの高校生たちは、どのように感想を持ったのだろうかと想像します。フランスの高校生は、レジスタンスの栄光の歴史とは逆に、ヴィシー政権下の恥辱的な歴史を学び、暗い気持ちになったかもしれません。しかし、大統領が過去の過ちを認め、それが人間の自由と尊厳を守るための行為だとの演説文を読んで、人類の普遍的価値に触れた喜びをあじわったのではないでしょうか。では、ドイツ人の高校生は、どのように感じたのか。勝手に思いをめぐらせるならば、彼らはきっと、フランス人の自省的な態度に、深い感銘を受けたのではないでしょうか。

 ドイツにおける第二次世界大戦の記憶は、どのような経緯をたどったのでしょうか。
 西ドイツでは、1950年代まで、「ドイツ人は、何よりもまず自分たちが戦争の犠牲者として見なされることを望み、ナチス政権が犯した残虐行為の責任をヒトラーや親衛隊に押し付けることで、第三帝国の記憶を抑圧していた」と、共通教科書は指摘します。
 しかし、1970年代になると様相は変わります。1970年、西ドイツ首相ヴィリー・ブラントは、ワルシャワ・ゲットー蜂起(1943年4月)の記念碑前でひざまずき、「過去の罪に対して政府が公式に改悛の意を表する」ことが行われました。また、1978年には、テレビドラマ『ホロコースト』は非常に高い視聴率を記録し、「長い間タブー視され語られることのなかったこの問題に光を当てる一つのきっかけ」になりました。
 論争は繰り返されます。一方で哲学者ハバーマスが、ドイツ史の名誉回復を図ろうとする愛国主義的試みを非難し(1986年)、他方でヴァルザーは、アウシュヴィッツが取り上げられることが多いため、「やがて世論もうんざりし、拒否するようになるだろう」と述べて(1998年)反響をよびました。2005年には、ベルリンのホロコースト記念碑建設にあたり、極右は建設の是非を問題にしました。
 共通教科書は、ドイツとフランスの高校生たちに、ドイツにおける戦争の記憶についての今日の到達点について、次ぎのような認識を提示します。
 「それでも今、記憶する義務は、以前よりも一層幅広く受け入れられている。実際、戦争の記憶はドイツ国民としてのアイデンティティを作り上げている。その記憶のおかげで、ドイツ国民は民主主義とヨーロッパ連合への責任を表明することができるのである。」

 フランスとドイツの国民と政府は、以上のように第二次世界大戦の記憶を、自らのものにしてきました。ともに自省的で真摯な態度で、歴史の真実に向き合ってきたのです。こうした戦争の記憶をベースにして、フランスとドイツの和解と協力の道が、切り開かれて行きます。つぎに、両国の和解への道をたどってみます。

 この共通教科書には、それぞれの時代を映した象徴的な行為や記憶の場としての写真が、解説とともに多数掲載されています。第1章冒頭の写真は、広島原爆ドームを掲げています。ショア(ユダヤ人大量虐殺)の記憶の場としては、パリ、エルサレム、アウシュヴィッツ、ベルリンなどの犠牲者追悼施設が、掲載されました。そして、フランスとドイツの和解の象徴的な行為として、何枚かの写真が用意されています。

1  ド・ゴール大統領とアデナウアー首相が一緒に、大聖堂でミサにあずかっている写真。これは1962年7月8日、フランスのランス大聖堂でのスナップ・ショットです。フランス国民の矜持を象徴する場所としてランス大聖堂が選ばれ、独仏和解を象徴する行為となりました。こうした行為が、1963年1月22日調印の独仏協力条約(エリゼ条約)につながります。ド・ゴール大統領とアデナウアー首相が抱擁し合う写真には、「独仏の和解」の表題が付されています。
2 共通教科書表紙には、手を取り合ったミッテラン大統領とコール首相の写真が掲げられています。1984年、第一次世界大戦で最も多くの戦死者をだしたヴェルダンの戦跡で、両首脳は、両世界大戦の犠牲者に哀悼の意を表しました。
 4枚目は、「ヴェルサイユに集結したフランス国民議会とドイツ連邦議会(2003年)」と題された写真です。エリゼ条約40周年を記念して、両国議会が共同会議に集結したものです。また、同じエリゼ条約40周年に関しては、この共通教科書作成のきっかけとなったベルリンでの独仏青少年会議の模様を写した写真も、掲載されています。
3  最後に紹介する写真は、シラク大統領がシュレーダー首相の背に手をかけようとして、ともに微笑を浮かべるスナップ・ショットです。表題には「ノルマンディ上陸60周年記念式典に招待されたドイツ首相」とあります(2004年6月6日)。
 共通教科書は、こうした象徴的行為について、次ぎのように総括します。「第二次世界大戦を記念する式典は、当初は戦争の勝利や敗北を記念して行われた愛国主義的なものだったが、次第に世界の数知れない戦争犠牲者全体に敬意を表し、悲劇的な虐殺の記憶が中心を占めるようになり、戦争中になされた暴虐が再び繰り返されないように、未来の世代に過去を記憶する義務を訴える場となった」。

 『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から、ドイツ・フランス両国の戦争の記憶と和解への道について、要約しました。両国首脳による執拗なまでの和解のための努力が、そうでない政府をもちつづけている日本から見ると、非常に新鮮な姿に映ります。両国の右派も左派も、同一基調の真摯な態度を持ちつづけています。ヨーロッパ連合(EU)成立の前提条件が、歴史の記憶と国家・国民間の和解にあることを、あらためてこの共通教科書から教えられました。日本と東北アジアの現実に戻ってみると、東アジア共同体という未来に向けた道のりのあまりもの遠さに、目がくらむ思いがします。

 補遺
 この共通教科書には、ドイツとともに日本の戦争責任についての記述があります。ヨーロッパの日本認識として重要だと思えるので、引用します。

 東京裁判の結果、敗戦国は戦争中に自ら犯した罪の責任を負うよう強く求められた。しかし冷戦の勃発のために、アメリカは戦争犯罪人の追及を断念することになった。こうして日本では、昭和天皇の戦争責任と、天皇を介した日本の社会全体の戦争責任の問題は、1989年のその死まで触れられることはなかった。また、歴史修正主義者たちが、・・・広島への原爆投下を引き合いに出し、・・・日本軍が犯した暴虐が特別なものではないと主張することもあった。(・・・の箇所は、ドイツに関わること) 

 そして共通教科書は、上記引用文の文脈のなかで、1995年の村山談話のほぼ全文を掲載し、「日本で初めて行われた公式謝罪」と解説しています。この教科書で現代史を学んだフランスとドイツの高校生は、安倍首相の村山談話見直し発言の歴史的意味を、正確に理解することだろうと思います。はたして、日本の高校生の認識は、如何?

 
 

« 福島の被災地を訪ねて | トップページ | ドイツ・フランスの和解への道-ある少女の場合- »

コメント

日韓・独仏関係についてネットで調べていてこのブログを発見しました。こうしたテーマに詳しい方を探しているのですが、よかったら、一度メールいただけませんか?

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/155294/57243668

この記事へのトラックバック一覧です: 『ドイツ・フランス共通歴史教科書(現代史)』から独・仏和解の道筋を読む:

« 福島の被災地を訪ねて | トップページ | ドイツ・フランスの和解への道-ある少女の場合- »